よく「人を見る目」があるとかないとか、そんなことが話題になる場面があります。
「やはり、君の目に狂いはなかったな」
「また浮気されたの?アンタはホント男を見る目がないねぇ」
などと言いますが、人の本質を見抜くのは難しいようでいて、大抵の場合は最初の直感がそのまま正しかったことが多いようです。
今回は平安時代末期、御家人たちの本質をよく見抜いて人心を掴んでいた源頼朝(みなもとの よりとも)公のエピソードを紹介したいと思います。
「中八が逃げる筈はない」頼朝公の慧眼
時は文治5年(1189年)12月、同年9月に滅ぼされた奥州藤原氏の残党である大河兼任(おおかわ かねとう)らが叛乱を起こしました(大河兼任の乱)。
「申し上げます!小鹿島橘次(おがしま きつじ。公成)殿、討死!由利中八(ゆり ちゅうはち。維平)は逐電(ちくでん。逃亡)!」
鎌倉へ駆けつけ急報を告げる使者に、御家人たちはざわめき立ちます。
「なんと……賊は手強(てごを)うございますな」
「小鹿島殿は討死……流石は御殿挙兵以来の勇士、天晴れな最期であったろう」
「それに引き換え、由利めは臆病風に吹かれたか、やはり新参者は恃みにならんな!」
小鹿島橘次こと橘公成(たちばなの きんなり)は頼朝公が反平氏の兵を挙げた治承4年(1180年)以来の古参である一方、由利中八こと由利維平(これひら)は、元は奥州藤原氏が滅ぼされて捕虜となり、最近仕えてまだ一年にもならない新参者です。
討死した橘次への追悼もそこそこに、揃いも揃って中八への悪口大会が始まろうとしていたところ、頼朝公が口を開きました。
「……使者の報告は間違っている。討死したのは中八に違いない。どちらかが逃げたというなら、それは橘次のはずだ」
【原文】使者の申詞(もうすことば)相違ありや。中八は定めて討ち死にせしむるか。橘次は逐電するか
※『吾妻鏡』建久元年(1190年)1月18日、19日条
より御恩を受けている古参の橘次が逃げ出して、まだ怨みも残っていよう新参の中八が、命を捨てて忠義をまっとうするなどと言うことがあるでしょうか。
「よいから検(あらた)めよ。必ずやその通りであろう」