関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?

時は戦国時代末期の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた西軍の副将・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)は、必死に逃亡を図ったもののついに捕まってしまいます。

「……さぁて、どうしてくれようか……」

東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)はもちろん秀家を殺す気満々でしたが、前田利長(まえだ としなが)や島津忠恒(しまづ ただつね)ら有力大名のとりなしによって仕方なく死一等を減じ、八丈島へ流刑(島流し)の判決を下しました。

「トホホ……ひとまず助かったのはよかったが、生きて再び本国の地を踏めるじゃろうか……」

現代でこそ飛行機で1時間弱(羽田空港発)、フェリーでも10時間半(竹芝桟橋発)で行ける八丈島ですが、当時の感覚では鳥も通わぬ絶海の孤島。一度流されれば、生きて帰れる希望はほとんどありません。

かくして慶長11年(1606年)、当時35歳の秀家は八丈島へ流されたのですが、以降、八丈島は江戸時代を通じて重罪人の島流しスポット(つまり、秀家はその第一号)となります。

かくして八丈島の厳しい大自然を相手に、秀家の新生活は幕を開けたのでした……。

「白い米が懐かしい……」秀家の極貧生活

本土と遠く離れている地形上、生活環境に一定の制限がかかってしまうのは現代も同じですが、当時の八丈島はそれ以上に条件が悪く、秀家は苦しい生活を強いられたと言います。

(まぁ、島流しですから、そうでなくては刑罰の意味がありません)

水が少ないため稲作はできず、やせた土地でも育つ稗(ひえ)や粟(あわ)といった雑穀を細々と収穫し、ほか魚介類や山菜などの採取によって糊口をしのいでいたそうです。

「あぁ、白い米が懐かしい……」

ある時、八丈島の代官(彼らには本土から食糧の支給があります)が白米のおにぎりをご馳走してくれた時、秀家は二つとも食べてしまわず、一つを懐中に入れて家臣のために持ち帰ったり、嵐のために八丈島へ避難してきた福島正則(ふくしま まさのり)の家臣に酒を恵んでもらったりなど、涙ぐましいエピソードが伝わっています。

そんな貧乏暮らしであれば、あまり長生きは出来なさそうですが、秀家はしぶとく49年もの歳月を耐え抜いたのです。

(実は妻の実家・前田家から、多少なりとも仕送りを受けていたという説もあります)

人生五十年と言われた時代、平穏に暮らしたって49歳まで生きるのは大変なのに、いったい何を食べたらそんな長生きできたのでしょうか。

3ページ目 長生きの秘訣は八丈島のアシタバ?

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