滅ぼされたライバルの痕跡?古代天皇「欠史八代」がしばしば都を移していた理由を考察

初代の神武(じんむ)天皇が日本を建国され、令和の今上(きんじょう。現在の天皇)陛下まで、実に126代2681年の歴史をつないでこられた皇室ですが、そのごく初期の天皇陛下はまだ神々と地続きだった名残なのか、少し人間離れした長寿の方が少なくありませんでした。

また、あまりに神秘すぎた故か具体的なエピソードがほとんど残されておらず、歴史学者の中にはその実在も疑わしいとする方もいるようです。

第2代・綏靖(すいぜい)天皇から第9代・開化(かいか)天皇まで8代の天皇陛下を「欠史八代(けっしはちだい)」と呼び、文字通り「欠けた歴史」すなわち架空(皇室の歴史を水増しするため)の存在とする意見がある一方で、ちゃんと実在していたという説も根拠をもって主張されています。

古代天皇の実在/架空にまつわる議論はいまだ決着していないものの、その存在を後世に伝えてきた方々は間違いなく存在しているわけで、そうした先人たちの思いを大切にしていきたいものです。

今回はそんな古代(特に欠史八代)の天皇陛下たちがしばしば都を移していたことに注目。実在/架空それぞれの面から考察していこうと思います。

滅ぼされたライバルたちがモデルになった?歴代天皇の都

まず、いわゆる欠史八代の天皇陛下と、その都は以下の通り(現在地については諸説あり)です。

第2代・綏靖(すいぜい)天皇…葛城高丘宮(現:奈良県御所市)
第3代:安寧(あんねい)天皇…片塩浮孔宮(現:奈良県大和高田市)
第4代:懿徳(いとく)天皇…軽曲峡宮(現:奈良県橿原市)
第5代:孝昭(こうしょう)天皇…掖上池心宮(現:奈良県御所市)
第6代:孝安(こうあん)天皇…室秋津島宮(現:奈良県御所市)
第7代:孝霊(こうれい)天皇…片丘馬坂陵(現:奈良県北葛城郡王寺町)
第8代:孝元(こうげん)天皇…軽境原宮(現:奈良県橿原市)
第9代:開化(かいか)天皇…春日率川宮(現:奈良県奈良市)
※漢字表記は『日本書紀』による。

こうして見ると代ごとに都を移しており、遷都と言えば平城京・平安京という大事業を連想する現代人からすると、よほど財力があったのか、それともよほど都が小さかったのか、たぶん後者(※)かと思われます。

(※)そもそも「都」とは「宮処=天皇陛下のお住まいである宮の所在地」ですから、もしかしたら代ごとに引っ越しするくらいの感覚だったのかも知れません。

あるいはこれらの「都」は、当時大和国内に乱立していたライバルたちを滅ぼした際、彼らのアジトを乗っ取ったのかも知れませんし、そもそも彼らの存在を各代の天皇陛下に当てはめた(モデルにした)のかも知れません。

もし後者だとすれば、かつて滅ぼされたライバルたちのヒント(業績や性格など)が、欠史八代それぞれの称号や名前に隠されている可能性もあります。

3ページ目 各天皇陛下の和名

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