戦国大名・伊達政宗(だて まさむね)の言行を記録した『命期集(めいごしゅう)』という書物に、こんな記述があるそうです。
「男の命は脇差(わきざし)なり」
一口に男と言っても色々いますが、ここで想定されているのは武士のこと。その命を象徴するのは、脇差に外ならない……なぜでしょうか。
脇差とはその名の通り、刀の脇に差す短刀で、日常使いや護身用(※)の刃物としてはもちろんのこと、戦場で組み伏せた敵の喉笛を掻き切り、あるいはいよいよ追い詰められた時に腹を切るなど、まさに肌身離さず活用するものでした。
(※)訪問先などでは刀を預けますが、その時でも脇差だけは武士の嗜みとして携帯が許されます。
しかし、いつも使っていたら当然ボロボロになってきますが、だからこそ日ごろから丹念に手入れをして、その状態に武士としての心がけが現れたのでしょう。
後世「伊達者」「伊達男」の語源ともなった派手好きな政宗が愛したのは、煌びやかな拵えの太刀よりも、質実剛健を地で行く脇差。その人柄が垣間見えるようですね。
さて、そんな政宗が好んだ脇差の中でも、特に思い入れのあったのが太閤・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の形見である鎬藤四郎(しのぎ とうしろう)。
一体どんな脇差だったのか、今回はそれを紹介したいと思います。