6月、梅雨の時期になると、じめじめとして心もふさぎがちになってしまうと思います。そんなとき、癒しになるのが「紫陽花(あじさい)」ではないでしょうか。
今回の記事では、そんなあじさいの知られざる歴史に迫ってみたいと思います!
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奈良時代には書物に登場!
あじさいが日本の歴史のなかで登場したのは、奈良時代でした。『万葉集』に2首、あじさいが詠まれた和歌があります。しかし、この2首というのは、あらゆる植物が書かれた万葉集においては少ない数なのです。
そのうえ、その2首であじさいは「味狭藍」や「安治佐為」と表現されており、現在私たちになじみのある「紫陽花」という表記はされていませんでした。
実際に「紫陽花」という表記が使われるようになったのは、平安時代になってからのことといわれています。
江戸時代、紫陽花は植木屋に嫌われていた?
安土桃山時代ごろから、画家によって紫陽花画(「松と紫陽花図」狩野永徳作など)が登場するようになります。また、江戸時代にも尾形光琳や俵屋宗達などによって紫陽花が描かれるようになりました。
江戸時代には園芸文化が根付いていましたが、それでも紫陽花は植木屋から好まれてはいなかったといいます。その理由は、紫陽花は繁殖が容易だったこと。植木屋でなくても誰でも簡単に増やせてしまう花だったため、疎まれてしまいました。
なお、松尾芭蕉は「紫陽花や帷子時の薄浅黄」という句を残しています。