「足利季世記」では空を飛んだと記され、「細川両家記」では魔法を使って政治をおこなったと書かれている、魔術にドハマりした「細川政元(ほそかわ まさもと)」を紹介します。
幼少期の細川政元
1466年、細川家の嫡男として産まれたのが細川政元で、幼名を「聡明丸」と言いました。
政元の父「細川勝元」が、「この子がいれば細川家は安泰だ」と言い残しこの世を去るほど、名前どおりの聡明な子供だったそうです。
しかし、のちに政元は、「戦国三大愚人」の1人に数えられます。
その過程に「魔術」も出てきますので、詳しくみていきましょう。
政元が権力を握るまで
政元は父の死後、8歳の時に家督を引き継ぎますが、まだ幼かったため実際には権力を持っていませんでした。
21歳の時に初めて家督としての実権を得た政元は、当時の室町幕府9代将軍・足利義尚と共に幕府に反抗的だった勢力「六角行高」の討伐に向かいます。
しかし、その途中で義尚が病死してしまったことで後継者問題が勃発。
政元は義尚の親戚にあたる「足利義澄」を推しましたが、政元とは違った考えをもっていた対抗勢力の日野富子や畠山政長の後押しが強く、「足利義材」が10代将軍となります。
そのことに不満を持った政元は、1493年に「明応の政変」と呼ばれるクーデータを起こし、義澄を11代将軍の座に押し上げました。
そして政元は、お飾り将軍・義澄の代わりに実権を握り、「半将軍」と呼ばれるようになったのです。