おったまげ!日本の近代化に挑戦した幕末の天才奇人・佐久間象山かく語りき

古くから「失敗は成功のもと」とは言いますが、カッコ悪いのでなるべくなら失敗はしたくないし、恥ずかしく思ってしまうのが、我ら凡人の性(さが)というもの。

しかしみんなが失敗を恐れていては社会は進歩せず、やはり誰かが先駆けとなって挑戦し続けねばならないのです。

そこで今回は幕末、不屈の闘志をもって日本の近代化に挑戦した天才・佐久間象山(さくま しょうざん)のエピソードを紹介したいと思います。

日本で初めての西洋式大砲を造ろう!

時は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)、日本で初めて(※)となる西洋式(鋳鉄製)の大砲づくりに挑戦した佐久間象山。
(※)青銅製の大砲は、既に高島秋帆(たかしま しゅうはん)が製造に成功しています。

彼は蝦夷地(現:北海道)の松前藩から「近年、頻繁にやってくる外国船を打払えるよう、高性能な大砲を造って欲しい」と依頼されていました。

それまでも大砲がないわけではありませんが、日本の大砲は骨董ひ……もとい古式ゆかしき青銅製。

同じ青銅砲を使っていたお隣の清(しん)国が、アヘン戦争(1840年)でイギリスにボロ負けしたこともあって、兵器の近代化は日本の独立を守る上で急務となっていたのです。

「うむ、西洋式の大砲を造れるのは日本でこの僕だけであるからして、大船に乗ったつもりでいたまえ!」

この象山、確かに天才ではあったようですが、それと同時に紙一重な奇人でもありました。

「佐久間先生……お頼み申しますぞ!」

当時は高温で鉄を熔(と)かせる反射炉の技術がまだ導入されておらず、従来の製法では湯(ゆ。熔かした鉄)がドロドロして鋳型に上手く行き渡らず、金属の中に空気が入って砲身が脆くなり、一発撃ったら破裂してしまうなど、とても使い物になりませんでした。

だから低温で熔かせる青銅製の大砲が主流だったのですが、鉄製の大砲に比べて砲身が弱いため、装填できる火薬≒飛ばせる砲弾の重量や距離に劣り、それでアヘン戦争は惨敗だったのです。

日本が欧米列強の植民地にされないためには、どうあっても鋳鉄製の大砲を造らねばならない……象山に課せられた使命は重大でした。

未熟な技術と限られた予算の中、日本最高峰の頭脳(自称)をもって創意工夫の限りを尽くし、満を持して完成させた日本で初めての西洋式大砲。さっそく試し撃ちに臨みます。

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