大河ドラマ「青天を衝け」横濱焼き討ち計画を発案した渋沢栄一の師・尾高惇忠の生涯

時は幕末、尊皇攘夷に燃える渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が、いよいよ志士として本格的に動き始め、ますます面白くなってきた大河ドラマ「青天を衝け」

栄一を攘夷運動へいざない、横浜の外国人居留地焼き討ちを提案したのが彼の従兄である尾高惇忠(おだか じゅんちゅう。演:田辺誠一)

大河ドラマでは栄一たちに文武両道を教え、尊皇攘夷思想に導いて彼らの人生に大きな影響を与えた惇忠は、一体どのような人生を送ったのでしょうか。

そこで今回は、幕末・明治を駆け抜けた渋沢栄一の師匠・尾高惇忠の生涯について紹介したいと思います。

渋沢栄一の従兄、また師匠として大きな影響を与える

尾高惇忠は江戸時代末期の文政13年(1830年)7月27日、武蔵国榛沢郡下手計(しもてばか。現:埼玉県深谷市)村の名主・尾高勝五郎保孝(かつごろう やすたか)の子として誕生します。

通称は新五郎(しんごろう)、惇忠とは諱(いみな。忌み名)で普段は使わず、また元々は「あつただ」と読みました。

幼い頃から利発だった新五郎は17歳にして私塾「尾高塾」を開き、栄一をはじめ近所の子供たちを集めて学問を教えたと言いますから、若くして相当な学識を供えていたことが分かります。

栄一とは従兄弟の関係ですが、妹の千代(ちよ)を栄一に嫁がせたことで舅婿の関係でもあり、また弟の尾高平九郎(へいくろう。諱は昌忠)を栄一夫婦の養子としました。

新五郎は栄一の従兄であり、舅であると共に、栄一の養子である平九郎の兄ですから、栄一の甥とも言えなくもないわけで……家系図を書いたら、ちょっとややこしくなりそうですね。

3ページ目 横浜焼き討ち計画を発案するが……

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