「日本実業界の父」として近代日本の発展に大きく貢献した渋沢栄一(しぶさわ えいいち)の生涯をつづった大河ドラマ「青天を衝け」。
栄一が生まれ、少年~青年期を過ごした故郷は武蔵国榛沢郡血洗島村。現代の埼玉県深谷市血洗島に当たりますが、血洗島(ちあらいじま)という地名に強烈なインパクトを受けたのは、きっと筆者だけではないはずです。
そこではかつて、一体どんな惨劇が繰り広げられたのか……想像はどこまでもふくらむものの、今回調べてみたので、血洗島の地名にまつわる諸説を紹介したいと思います。
荒れ狂う利根川に由来?血洗島にまつわる諸説
自分の生まれ故郷の地名について、栄一も同じような疑問を抱いていたようで、事あるごとに人々から血洗島の語源について尋ねたところ、様々な言い伝えを耳にしました。
一、太古の昔、上州・赤城山の大ムカデが日光・男体山の大蛇と戦った際に片腕(足?)をもがれ、その傷口の血を洗ったから(戦場ヶ原の伝承)
※いずれも関東平野をうねり、しばしば荒れ狂った利根(とね)川の象徴であったとも考えられます。
一、後三年の役(永保3・1083年~寛治元・1087年)において、奥州(東北地方)へ遠征中の源義家(みなもとの よしいえ)が襲撃を受け、家臣の一人が片腕を斬り落とされ、その傷口を洗ったから
※ちなみに、近くに片腕を葬った「手墓(てばか)」があり、墓の両隣にある村を上手計(かみてばか)・下手計(しもてばか)と呼ぶそうです。
一、アイヌ語で「岸」を「ケッセン(ケシ)」などと呼び、これに誰かが「血洗」と当て字したのを訓読みしたから
※「けっせん」と聞いて自然と「血洗」と漢字を連想するか、ちょっと苦しいように感じますが、どうでしょうか。