平和ボケに喝!武士の理想像を追い求めた江戸時代の剣豪・平山行蔵【上】

世の中、平和であるに越したことはありませんが、あまりに平和すぎるとそれに疚(やま)しさでも覚えるのか、あるいは「もうそろそろ何か起こるやも知れぬ」などと危機感を抱くのか、ことさら武張った振る舞いに及ぶ偏屈者がごくたまに現れます。

常在戦場(じょうざいせんじょう、常に戦場に在りの精神)」「治にあって乱を忘れず」

誠に結構な心がけではありながら、傍から見ればいささか滑稽にも映るもので、しばしば人々の失笑を買うことも少なくありません。

「てやんでぃ、べらぼうめ!」

今回は江戸時代末期、文弱に流れる世の中に憤りながら、どこまでも武士の在るべき姿を追求し続けた平子龍(へいしりゅう)先生こと平山行蔵(ひらやまこうぞう)のエピソードを紹介したいと思います。

武士たちの「平和ボケ」を嘆いた平子龍先生、道場を開く

行蔵は江戸時代中期の宝暦9年(1759年)、江戸幕府の御家人(伊賀組同心-いがぐみ どうしん)である平山甚五左衛門(じんござゑもん。勝籌)の子として四谷北伊賀町の稲荷横丁(現:東京都新宿区三栄町)のに生まれました。

諱(いみな。本名)は(ひそむ)、元服して字(あざな)を子龍(しりゅう)と称します。子供の頃から憧れていた?『三国志(さんごくし)』の英雄・趙雲(ちょう うん。字は子龍)にあやかろうとしたのかも知れません。

(※)武士の間では諱を忌み名(呼んではいけない)と考えており、ふだん呼ぶための通称が行蔵、字は中国から来た風習で、成人男性の通称として名乗ったものです。平子龍とは中国風の一文字姓+字で、いよいよ『三国志』っぽいですね。

「べらぼうめ、どいつもこいつも軟弱でしょうがねぇ。これじゃあご公儀のお役には立てねえよ!」

平山家は30俵2人扶持という貧乏暮らし(※)でしたが、世の人々、特に武士たちの「平和ボケ」を嘆いてか、自宅の隣に兵聖閣(へいせいかく)武道塾という道場を開き、文武の鍛錬を啓発したそうです。

(※)現代の感覚で年収およそ300万円で、自分+家来1名を雇う義務を負う。自分だけで生きるなら充分ですが、家来の俸給分がきつそうです。 ※根拠:レファレンス共同データベース

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