徳川家康も苦笑い…偏屈すぎる戦国武将・大久保彦左衛門のとんだ「あいさつ回り」

戦国乱世も遠く過ぎ去ろうとしていた江戸時代初期、三河武士らしい剛直さをもって天下人・徳川家康(とくがわ いえやす)にも遠慮なくモノ申した自称「天下の御意見番」大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざゑもん。忠教)。

犬にも喩えられた三河武士の一途な忠義ゆえと心得ていればこそ、家康も彦左衛門の傲岸不遜なモノ言いを受け入れてきましたが、世が平和に近づくにつれ、しだいにそれを許さない空気が生まれつつありました。

彦左衛門殿にも、そろそろ世渡りというものを覚えて貰わねば困る……大久保一族の中には、そう考える者が現れたようです。

彦左衛門「ご機嫌とりに来てやったぞ」

五五 大久保彦左衛門は武勇の人にて、兼て気儘(きまま)に悪口(あっこう)ばかり申され、御老中方へ見舞などもこれなく候(そうろう)。或時一門衆より、「御手前は上の思召(おぼしめし)御懇ろにて御歴々も御崇敬なされ候(そうら)へば、唯今の通りにて御一代は相済むべく候へども、子孫の為を思召し、老中方へも折節には御見舞ひ、時代の風に御会釈ども御座候へかし。」と申され候。彦左衛門「尤(もっと)もの儀なり。」とて、その翌朝御老中へ相廻られ候。取次役も御主人方も、日比(日々)のゑせかたぎを存じ、早々御出合ひ、「珍しき御出(おい)で。」と御挨拶候へば、彦左衛門取合に、「当世は各(おのおの)へ追従(ついしょう)仕(つかまつ)らず候へば、子孫の為に罷(まか)りならず候由(そうろうよし。~だそうだ)、一門共申し聞け候に付て、子供不憫に存じ、追従の為罷り出で候。」と申され候由。

※『葉隠聞書』第10巻より。

【意訳】
大久保彦左衛門は武骨な偏屈者で、誰彼構わず批判して、老中たちに取り入ろうともしなかった。それを見かねた一門の者は、ある時彦左衛門に意見した。

「彦左殿は数々の武勲によって、徳川将軍家はじめお偉い方々に一目置かれているから、勝手気ままな振る舞いも大目に見られているが、今後武勲の機会に恵まれないであろう子孫たちはそうもいかなくなることを考えて、今の内からコネを作っておくことも考えて下さいよ」と。

3ページ目 それを聞いた彦左衛門は…

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