戦国期。織田家の重臣として織田信秀・信長親子に仕えた「佐久間信盛(さくまのぶもり)」は、筆頭家老として権威を奮ったが、晩年には信長の不評を買い織田家を追放された。
今回は、織田家の中心家老から浪人に身を落とした佐久間信盛の栄枯をご紹介する。
出生から立身
尾張国で生まれた信盛は、織田家内で勃発した家督相続問題において信長を指示し、家督相続に尽力したことで筆頭家老の地位を手に入れる。
以後は、重臣として信長が天下人にのし上がるための重要な戦に幾つも従軍した。1560年に今川義元を討ち取った桶狭間の戦いや、70年に起こった浅井氏との姉川の戦いなどで武功を挙げている。
武将としての信盛は撤退戦が得意であったようで、戦の殿を務めることが多く「退き佐久間」と形容された。
信長との軋轢
1573年8月。越前の朝倉氏との戦いにおいて、織田軍は終始戦況を有利に進め朝倉軍を敗走に追い込む。しかし、撤退する朝倉氏の総大将・朝倉義景を討ち取ることに失敗。本拠地である一乗谷への帰還を許してしまう。
信長はその事実に対し信盛ら家臣団を厳しく叱責したが、信盛は「とは言っても、自分たちのような優秀な家臣団は持てないでしょう」と自身を弁護し、正当性を訴えたという。
この出来事は、後に信盛が織田家臣団から追放される遠因となったとされる。