織田信長が怖れ、徳川家康を一蹴した武田信玄(たけだしんげん)。一般に戦いの天才というイメージが強い信玄ですが、それだけで戦国最強軍団を構築できたわけではありません。
ワンマンが多かった戦国時代において、信玄は家臣たちの意見を取り入れる合議制を行った大名でした。この【前編】では、信玄が実践した合議制と、それにより構築された戦国最強の軍団についてお話ししましょう。
戦国大名としては珍しかった合議制を採用
武田信玄は、多くの家臣たちを集めて合議(今でいう会議)を盛んに行ったことで知られています。これは、戦国時代では珍しいことでした。
当時は、合戦や内政などに関わる重要な決断を行うのは、戦国大名単独か、少数の側近のみの意見を聞き、決定していました。
その理由として、戦国大名の複雑な家臣団の構成にありました。家臣は、代々にわたりその大名に仕えていた者だけでなく、戦いの過程において服従した者たちも多く含まれていたのです。
中には、隙あらば裏切りの機会を狙っている者や、敵から送り込まれた間者(スパイ)などもいたことが考えられます。そうした状況で、多くの家臣たちを交えて重要な事柄を話し合うのは、国の存続にもかかわる、とても危険な行為であったのです。
苦い経験を活かして合議制を採用
危険を冒してまでも、信玄が家臣たちの意見を尊重する合議制を採用したのには、家督相続時の苦い経験があったからでした。
信玄が誕生した1521(大永元)年頃は、甲斐国主でありながら武田家の力は盤石とはいえませんでした。信玄の父・信虎に対する家臣たちの忠誠心は薄く、家臣たちも内紛が絶えないという状況だったようです。信虎は強硬策に出て、自分の意に沿わない者たちを容赦なく処断したため、多くの家臣たちから反発を買っていました。
1541(天文10)年、ついに重臣たちを中心に信虎追放というクーデターが勃発します。そして、信玄を新たな国主に祭り上げたのです。こうした状況ですから、家臣団にまとまりがあるわけがなく、若き国主信玄は家臣たちの掌握に苦労し続けました。
その結果、家臣団を束ねるには、合議制を行い彼らの言い分に耳を傾けること。そして、領土拡大により、彼らの所領を増やし、保証することという結論にたどり着いたのです。