日本各地には、いまだに数多くの「埋蔵金伝説」が存在ます。
飛騨国(岐阜県北東部)の白川郷中心部にあった、帰雲城(かえりくもじょう)もその一つ。
戦国時代、内ヶ島一族は同地から越中国(富山県)まで勢力を築きます。さらに多くの金山を支配下に置き、小大名ながら潤沢な経済力を誇りました。
しかし一大勢力を築いた内ヶ島一族は、ある日突然にして歴史上から姿を消してしまいます。
彼らに一体何があったのでしょうか。
帰雲城と内ヶ島一族について見ていきましょう。
天正大地震発生以前の帰雲城
飛騨国の内ヶ島氏は、猪俣氏、或いは楠木氏を発祥とすると伝わります。
室町時代、内ヶ島季氏は京の室町幕府第3代将軍・足利義満に奉公衆として馬廻を務めていました。馬廻は将軍家の親衛隊ですから、余程の家柄と能力、将軍からの信頼があったと見ることが出来ます。記録から、8代将軍・義政の代にも為氏(季氏)は足利将軍家に仕えています。
この時代、為氏は義政の命を受けて飛騨国に入封。白川郷を本拠として、向牧戸城を構えました。足利義政が内ヶ島氏を白川郷に入封させたのは、金山や銀山などの鉱山開発にあったと伝わります。
その証左として、為氏入国後に数ヵ所の金山が発見されました。
為氏はこれらの鉱山経営によって財を成し、義政や将軍家の財政基盤の一つとなったと言われています。銀閣寺の造営においても、為氏の財が使われたようです。
応仁元(1467)年、応仁の乱が勃発します。このとき、為氏は兵を率いて上洛しています。依然として京の将軍家との関係は続いていたようです。応仁の乱によって、戦国時代が始まります。
飛騨国でも一向宗に属する照蓮寺が力を力を増していました。照蓮寺の教信上人は還俗して三島将監となり、諸国から武士を動員していきます。
為氏はこの事態を看過することはありませんでした。
文明7(1475)年、内ヶ島勢は照蓮寺を攻めます。結果三島将監と弟の明教を自害に追い込み、その鎮圧に成功しました。戦後、本願寺の門主・本願寺蓮如を仲介として照蓮寺と和議を締結。照蓮寺の再興を許した上で、同寺を内ヶ島氏の支配下としました。
以後の内ヶ島氏は、当主が雅氏隣る時代まで本願寺と友好関係を結んでいます。
大永年間には、内ヶ島家は越中国への本願寺勢力の防衛に出動。天分年間には美濃国へ侵攻し、本願寺証如から撤兵を依頼されるなど足並みを揃えています。
内ヶ島家は、鉱山開発による経済力と本願寺の軍事力を存分に駆使し、領土の防衛や拡大に邁進したようです。