明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【後編】

一之瀬 陽平

明智光秀と縁戚関係にありながら、本能寺の変の後に起きた山﨑の戦いにおいて光秀を裏切った「細川藤孝(ほそかわふじたか)」と「筒井順慶(つついじゅんけい)」

【後編】では、本能寺の変以降の光秀と藤孝および順慶の行動を紹介する。

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明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【前編】

日本の歴史上、最も有名なクーデター「本能寺の変」を成した戦国大名「明智光秀(あけちみつひで)」。一躍天下人候補に躍り出た光秀だったが、同じく織田信長の家臣であった羽柴秀吉との戦いによって敗死した。…

光秀の誤算① 細川藤孝からの拒絶

1582年6月2日早朝。光秀は本能寺を急襲し信長を討ち取った。6月5日の時点で京都・近江を制圧し、信長の居城であった安土城に入城。7日まで留まっている。

この間、光秀は自身に味方する諸大名を募り敵対勢力に備えた。親戚であり与力でもある藤孝の助力は欠かせず、6月3日の時点で助力を求めている

しかし、藤孝は再三に渡る光秀の要請を拒否して剃髪(信長の死に対して喪に服する行為)。息子の忠興に家督を譲り隠居してしまう。こうして細川親子は明確に反光秀を掲げ、協力を拒んだ

光秀の誤算② 筒井順慶の籠城

順慶は早々に協力を拒んだ藤孝とは違い、当初は光秀に協力する姿勢を見せ、5日には近江まで兵を出しているしかし、その後は積極的な支援行動は取らず静観の構えを見せ、9日に居城である郡山城に籠城した。

順慶の煮え切らない態度に光秀は軍を率いて何度も圧力をかけたが、順慶は応答しなかったという。光秀は10日の時点で順慶の助力を諦めて軍を撤収した。

3ページ目 光秀の誤算③ 羽柴秀吉の着陣

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