1582年。天下統一に最も近い存在とされていた織田信長は本能寺で横死した。この後、信長の元で急成長を遂げていた一派は、主を失ったことで瓦解してゆくことになる。
今回は、信長亡き後の織田家重臣たちの混乱とその後についてご紹介する。
清洲会議
1582年。信長の死により発生した後継問題や領地問題について話し合う場が尾張国の清洲城で行われた(清洲会議)。出席者は織田家重臣の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人であり、決定の委任役は織田信雄(信長の次男)・織田信孝(信長の三男)と徳川家康の3人が努めた。
信長の遺児である信雄と信孝は互いに後継の地位を主張したが、本能寺の変の功績によって存在感を増していた秀吉に推挙された「三法師(信長の長男・信忠の子)」の後継擁立が決まった。
この決定が、後の織田家内の内紛に発展していくことになる。以下に清洲会議後に重臣たちがとった行動を振り返る。
羽柴秀吉(はしばひでよし)
後に豊臣秀吉となり天下を統一する人物である。清洲会議後の秀吉は、私的に諸大名との交友関係を密にし、信長の葬儀を取り仕切るなど、日々織田家内の影響力を強めていった。
1582年の10月には清洲会議での約定を反故にして、織田信雄(信長の次男)を担ぎ、信長の次男・信孝打倒に挙兵。これによって秀吉の言動に不満を抱いていた柴田勝家との対立構造が決定的となる。
1583年。北ノ庄城から出陣してきた柴田軍と対峙(賤ヶ岳の戦い)。柴田側であった前田利家の裏切り(秀吉が調略していたとされる)などにより、勝家との戦いに勝利した秀吉は織田家内の地位を確立。実質的に織田家中を掌握し、天下人への道を歩んでゆくことになる。