徳川家康(とくがわ いえやす。天文十一1543年~元和二1616年)と言えば、幼少期から今川(いまがわ)家の人質にとられるなど苦労を重ね、幾多の困難を乗り越えた末に天下をとったことで知られています。
そんな苦労話の一つとして、鷹狩りのエピソードを覚えている方も多いのではないでしょうか。
「その方、人質の分際で鷹狩りに興じるなどと……」
放った鷹が孕石主水(はらみいし もんど)という今川家臣の屋敷に迷い込んでしまった時にさんざん詰(なじ)られ、人質の境遇を嘆く竹千代(たけちよ。家康の幼名)少年に声援を送ったのは、きっと筆者だけではない筈です。
他にも今川家の御曹司である今川氏真(うじざね)からもいじめられ、「いつか見ておれ……」と思っていた永禄三1560年、当主の今川義元(よしもと)が桶狭間の戦いで討死。
そのドサクサに紛れて旧領の三河国(現:愛知県東部)を取り戻して独立した家康は、義元を討ち取った織田信長(おだ のぶなが)とタッグを組んで弱体化した今川家を攻略。永禄十二1569年には氏真を降伏せしめました。
「おのれ、主水は逃げたか!」
東の武田(たけだ)家へ逃げ込んだ主水を捕らえたのは天正九1581年、高天神城(現:静岡県掛川市)を攻略した時のことでした。
「あの時の恨み、忘れてはおらぬぞ!」
「くっ……」
高天神城で捕らわれた武将たちのほとんどが赦された中、ただひとり主水だけが切腹を命じられたと言います。
鷹狩りのエピソードが元服(13歳。天文二十四1555年)前とすると10~12歳、主水を捕らえたのが39歳ですから、ほぼ30年近く昔のことをずっと根に持っていたことになります。凄まじい執念と言うか、それだけトラウマが大きかったのでしょう。
かくして家康は積年の恨みを晴らし、とりあえずはめでたしめでたし……というストーリーに親しんできたのですが、史料を読むと、どうやらちょっと事情が違うようです。
家康の逆ギレで犠牲になった孕石主水
『三河物語(みかわものがたり)』『家忠日記(いえただにっき)』などによれば、この孕石主水は竹千代が預けられた館の隣に住んでおり、竹千代の放った鷹がしばしば「落とし物(例:獲物や排泄物など)」をしていたのでした。
「こらーっ!鷹はきちんと躾けておけと、いつも言っておろうがっ!」
一昔前のマンガで喩えるなら「空地で野球をしていたら、打ったボールでカミナリおじさん家の窓ガラスを割ってしまった」ような感覚でしょうか、
要するにただの苦情または説教であり、言い方はきつかったのかも知れないにせよ、これは主水が怒るのも無理はないと思います。
「御屋形様……あの竹千代めに、ちっとはきつう言ってやって下され……」
「まぁまぁ主水、子供のする事じゃから……ははは……」
竹千代を我が子も同然に溺愛(諸説あり)していた今川義元には取り合ってもらえず、上空からは相変わらず鷹の落とし物……これでは主水の口調がついついきつくなってしまうもの、それを恨んで切腹を命じるとは、逆ギレ以外の何ものでもありません。
ちなみに『三河物語』の大久保彦左衛門忠教(おおくぼ ひこざゑもんただたか)も『家忠日記』の松平家忠(まつだいら いえただ)も家康の家臣であり、徳川びいきがあった筈です(現に『三河物語』などはよく「徳川家のプロパガンダ本」扱いされています)。
それでもこの件に関しては「どう見ても竹千代が悪い。少なくとも、改めるべき点はある」ような書き方をされており、主水に対してもう少し寛容さを示してもよかったのではないでしょうか。
余談ながら、孕石「主水」とは通称(官職名)であって、諱(いみな。本名)は孕石元泰(もとやす)と言い、元の字は義元の名前から拝領(偏諱)したもので、相応の実績と信頼関係が判ります。
とかく「幼少期の竹千代を理不尽にいじめ、因果応報な末路を辿った無能なザコ悪役」に描かれがちな孕石主水ですが、決してそんな事はなく(もしそうなら、武田家も受け入れなかったでしょう)、むしろ理不尽に殺された無念は察するに余りあるものです。
世の中「被害者ヅラしているヤツの方が、実は加害者だった」なんてのはよくある話で、最終的に成功したから家康(竹千代)の方が「善良な被害者(≒主人公)」に見られがちですが、むしろ主水の方がよほど気の毒だった、というエピソードでした。
※参考文献:
小井土繁と学習まんが集団 『少年少女 人物日本の歴史 徳川家康』小学館、1986年5月
大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』ちくま学芸文庫、2018年3月
盛本昌広『松平家忠日記』角川学芸出版、1999年3月