日本には約30万以上の苗字があるそうですが、山田とか鈴木と言った読みやすいものから、どうしてそう読むの?と思ってしまうものまで、様々です。
調べていると色々と発見するもので、今回は越後国(現:新潟県)の戦国武将・五十公野信宗を紹介。名前(信宗)はともかく、五十公野って読めますか……?
「いじみの」と読むようになった五十公野の由来
正解は「いじみの」。五は「い」つつ、十は「じ」ゅうで解りますが、公で「み」とはなかなか読みません。もしかして、き「み」でやんごとなき方(公家?)を表わしたのでしょうか。
現代の新潟県新発田市にある地名で、古くは「いきみの」の読み、一説によると五条道兼(ごじょうの みちかね)という貴族が当地の竜昌寺で没したことに由来するとも言われています。
「五」条のお「公」家様が亡くなった「野」として語り伝えられる内に五条が五十となり、真ん中の「き」が抜け落ちて「五十公野」で「いじみの」と呼ばれるようになったそうです。
他にも五十(≒とにかく沢山)の峰々が連なった地形から「いじみね」と呼ばれていたのが訛ったとする等の説もあります。
上杉謙信に仕え、政治分野で才能を発揮
さて、そんな五十公野の地を治めたのは、越後の土豪・新発田(しばた)氏。古くは鎌倉幕府の御家人・佐々木盛綱(ささき もりつな)を祖とする近江源氏の末裔で、室町時代ごろに分家して当地へ土着、五十公野の名字を称します。
信宗はその家督を継承したのですが、元は越中湯山城(現:富山県氷見市)の城代・長沢筑前守光国(ながさわ ちくぜんのかみみつくに)に仕える小姓で、名は長沢勘五郎(かんごろう)と言いました。
生年は不詳、主君と同じ名字であるため、恐らくは親族から取り立てられた美少年だったのでしょう。
そんな勘五郎は永禄十二1569年、上杉謙信(うえすぎ けんしん)の越中侵攻に際して主君と共に降伏し、謙信の傍に召し出されて長沢道如斎義風(どうじょさい ぎふう)と改名します。
いかにも出家したような名前ですが、後に上杉家の重臣である五十公野治長(はるなが)の妹婿となっているため、恐らくは雅号でしょう。
かくして上杉家に仕官した勘五郎改め道如斎は、才覚を認められて越後三条(現:新潟県三条市)の地で町奉行を拝命。その経営に手腕を発揮しました。しかし、彼もまた戦国乱世を生きる武士。政治分野で活躍したとは言え、決して文弱の徒ではありませんでした。