前回のあらすじ
時は明治三1870年、仙台藩士の家に生まれたお転婆少女「たりた」は、17歳にして剣術に目覚め、両親の反対を押し切って佐竹鑑柳斎(さたけ かんりゅうさい)に弟子入り。直心影流(じきしんかげりゅう)薙刀術を学びます。
厳しい修行の末、めきめきと上達した「たりた」は、師より印可状と「秀雄(ひでお。雄=男より秀でている、の意)」の名前を授かり、剣豪美女として活躍。
先夫・吉岡五三郎(よしおか ごさぶろう)と死別し、一人娘と生き別れになった悲しみを振り切るため武者修行の旅に出て全国各地で暴れ回った末、帰郷して直猶心流(ちょくゆうしんりゅう)鎖鎌術の宗家・園部正利(そのべ まさとし)と再婚。
以降は直心影流薙刀術の宗家を継承し、大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい)で活躍することになるのでした。
前回の記事
何で女性にその名前?生涯無敗を誇った剣豪美女・園部秀雄の武勇伝【上】
幕末の「人斬り」渡辺昇に勝利するも……
大日本武徳会とは武士の世が終わった明治以降、次第に廃れゆく武道とその精神を継承・振興するべく明治二十八1895年に設立された団体で、初代総裁には皇族の小松宮彰仁(こまつのみや あきひと)親王が就任されました。
毎年大会を開いて武道の振興に努める中、明治三十二1899年の第4回武徳祭大演武会において、秀雄は親王殿下より渡辺昇(わたなべ のぼり)との異種対戦を指名されます。
渡辺昇とは肥前国大村藩(現:長崎県大村市)出身の元尊攘志士で、討幕派の急先鋒として京都で佐幕派志士を多数血祭りに上げ、かの新選組(しんせんぐみ)からも恐れられていた「人斬り」。
また、坂本龍馬(さかもと りょうま)からの依頼で討幕運動の原動力となった薩長同盟の段取りをつけるなど政治的な功績も多く、大阪府知事や元老院議官、貴族院議員などを歴任します。
……とは言うものの、そんな昇(天保九1838年生まれ)も当年62歳。さすがにピークは過ぎている一方で、秀雄は当年30歳という脂の乗り切った年ごろ。老練の渡辺昇か、新進気鋭の園部秀雄か……勝負はあっけないものでした。