前回のあらすじ
時は平安末期の治承四1180年、20年の雌伏を経て平家討伐の兵を挙げた源頼朝(みなもとの よりとも)でしたが、石橋山の合戦で惨敗。御家人たちと散り散りになって、命からがら脱出します。
頼朝の義弟・北条義時(ほうじょう よしとき。小四郎)は再起を期して父・北条時政(ときまさ)と共に甲斐国(現:山梨県)へ赴き、武田信義(たけだ のぶよし)の軍勢を連れて頼朝と再会。
徐々に勢力を拡大する頼朝たちを看過できぬと見た京都の平清盛(たいらの きよもり)は、嫡孫・平維盛(これもり)を総大将に頼朝討伐軍を編成。かくして源平両軍は富士川を挟んで対峙するのでした。
前回の記事
源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【五】
主従そして兄弟の再会
「おぉ、舅殿。大儀であったな。それに小四郎も」
「「ははぁ。佐殿もご無事で何よりにございまする」」
「三郎(義時の兄・北条宗時。討死)のことは無念であったが……」
「いえ、今は大戦さの前なれば、敵の首級をこそ手向けましょうぞ」
「……そうだな」
再会を喜ぶ頼朝主従の元へ、土肥次郎実平(どい じろうさねひら)がやって来ました。
「佐殿。表で怪しい若者が面会を求めておるのですが……」
聞けば年のころは二十歳前後で容姿は云々、20名ばかりの供を連れているとの事でした。
「いかが致しましょう。追い返しますか?」
「いや……もしかして、以前に平家の追手を逃れて奥州で匿われていた弟の九郎では……?」
此度の挙兵を聞いて、加勢に駆けつけてくれたんだきっと……そう確信した頼朝でしたが、生き別れた時点(平時元1160年)で赤ん坊だった弟がどのように成長したかなんて分かるものなんでしょうか(まぁ、後世の演出でしょう)。
果たして面会してみると確かに弟の九郎で、今は元服して源義経(よしつね)と名乗っていました。
「兄上、この日をずっと心待ちにしておりました」
「我もまた思いは同じ……共に平家を討ち滅ぼし、父上(平治の乱で命を落とした源義朝)の仇をとろうぞ!」
「はい!」
手を取り合う兄弟の様子は、かつて奥州征伐(後三年の役。永保三1083年~寛治元1087年)で遠路はるばる兄・源義家(よしいえ。頼朝の高祖父)の加勢に駆けつけた源義光(よしみつ)を彷彿とさせる感動シーンだったと伝わります。
ちなみに、義経が引き連れていた20名という人数は軍記物語『源平盛衰記』によるもので、『吾妻鏡』では義経一人だけとされており、その場合、義経は一の家来として有名な武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)をはじめ、家来たちとまだ出会っていなかったか、あるいはついて来てくれなかったことになります。
※もしかしたら、ちゃんとついて来ていたけど、遠慮して(あるいは警戒されないよう)面会が許されるまで、どこかに控えていたのかも知れません。
こうして準備万端整った源氏の軍勢は、いよいよ平家との決戦に臨むのでした。