日本を歩き回って測量し、日本地図を作った偉人といえば伊能忠敬(いのうただたか)を真っ先におもいだすでしょう。
その忠敬が幕府から正式に命令されて測量の旅に出たのと正反対に、自由奔放に探検を続けた結果、幕府の目に留まったのが松浦武四郎(まつうらたけしろう)という人物でした。
そんな彼の破天荒な人生の一端を紹介します。
10年間の家出!?
武四郎は文化15年(1818)、伊勢国一志郡須川村(現・三重県松阪市小野江町)の郷士の家に生まれました。山本亡羊という本草学の学者に師事しさまざまなことを学びます。そして16歳で突然家出し、一か月後に江戸で見つかりあえなく連れ戻されます。
しかしよほど好奇心が勝っていた人物だったのでしょう。帰途への最中に現・長野県の戸隠山に登ったといいます。
そして二度目の家出は17歳、なんと今度は10年間!
そしてこの間に北は青森から南は九州まで行脚し、名だたる霊山・名山に上り、25歳のときにはなんと日本を飛び出し朝鮮半島にまで渡ろうとしますが、鎖国という厚い壁に阻まれ断念。26歳の時長崎で大病を患い、禅林寺で出家し僧侶「文桂」となります。
その間親兄弟が亡くなり天涯孤独となってしまいますが、蝦夷へロシアが近づいていることを知りいてもたってもいられなくなったのか、27歳のときに蝦夷へ渡ろうとします。
しかし蝦夷地を管轄している松前藩に取り締まりにあいこちらも断念し、一度郷里へ戻ります。
自費出版が幕府の目に留まる
そこで諦める武四郎ではありません。翌年には商人を装って蝦夷地にわたります。二回目はちゃっかり松前藩医の下僕という肩書を得て蝦夷へ渡り、32歳の3回目には国後島、択捉島に上陸。
時は幕末。武四郎はただ好奇心のままにさまよっていたわけではなく、ロシアの脅威や外国船の脅威から日本を守るためという思いもあり、未踏の地をふみしめ帰ってきてはその記録を綴っていたのです。
もちろんアイヌとの親交もあり、彼らの言語や文化も丹念に記録。そして8巻の大作にまとめて自費出版します。
その評判が幕府の耳に聞こえ、いよいよ幕府の「蝦夷地御用雇入」と雇用されるのです。
『石狩日誌』万延1 [1860] 序 松浦武四郎 著(国立国会図書館より)