山陰地方出雲の支配権を獲得し、戦国大名として発展した「尼子家」。尼子家には屋台骨となって主家を支えた武将が存在した。数々の武勇を残し、後世に名を刻んだ男「山中幸盛」である。
今回は「山陰の麒麟児」と謳われ、尼子家の再興と打倒・毛利に生涯を捧げた男、山中幸盛の伝説をご紹介する。
出生から家督相続
山中幸盛・通称「鹿介(しかのすけ)」は1545年に出雲国(現在の島根県)で生まれたとされている。山中家の正確な起源はわかっていないが、数世代にわたって尼子家に仕えた家臣の一族であった。
父・「満幸」は早世しており、母親の手によって育てられたため、幸盛は貧しい少年時代を過ごしたという。戦場経験は非常に早く、8歳で敵を打ち、13歳の時には首級を上げたといわれる。16歳で、生来病弱であった兄の「幸高」に変わり家督を相続している。
宿敵・毛利軍との攻防
尼子家は敵対関係にあった安芸国(あきのくに)の毛利氏と定期的に戦を構えていた。
幸盛が仕官した頃の尼子家は、1561年の尼子家当主「尼子晴久」の急死により次男の「義久」が家督を継いでいたが、毛利氏との和平交渉のもつれから勢力が崩壊しつつあった。
毛利氏に寝返る国人勢力が目立つ中、毛利家当主の「毛利元就(もうりもとなり)」は本格的に出雲への侵攻を開始する。