♪一ツとせ~ 人の上には人ぞなき 権利にかわりはないからは コノ人じゃもの♪
※植木枝盛「民権数え歌」より。
人間として生まれた以上、身分や性別にかかわらず、誰もが当然に有している人権。多くの日本人が民権(国民の人権)意識に目覚めつつあった明治時代、封建主義の壁を打ち破ろうと多くの人々が奮闘していました。
今回はそんな一人、「民権ばあさん」の異名で知られた高知県(旧:土佐藩)の女性民権家・楠瀬喜多(くすのせ きた)のエピソードを紹介したいと思います。
日本初の快挙!喜多たちが女性参政権を獲得するまで
楠瀬喜多は天保七1836年9月9日、土佐の車力(しゃりき。人力車夫)・袈裟丸儀平(けさまる ぎへい)の長女として生まれ、19歳となった嘉永七1854年に土佐藩の剣術指南役を務める楠瀬実(くすのせ まこと。文政八1825年~明治七1874年)に嫁ぎます。
男勝りな性格だったようで、夫から剣術と薙刀、そして鎖鎌も学んでかなりの腕前を誇ったそうですが、明治七1874年11月に実(享年50歳)が亡くなると、子供がおらず、養子もとっていなかったため、喜多が戸主として楠瀬家を継ぎました。
そんな中、明治十一1870年に高知県区会議員(※)の選挙が行われた時、喜多が投票に行くと、女性であることを理由に門前払いを喰らいます。
(※)当時、県には大区(県会議員に相当)と小区(市町村会議員に相当)があり、喜多は第八大区二小区に住んでいました。
当時の法律(府県会規則第14条)では「満20歳以上の『男子』で選挙区内に本籍があり、地租(現:固定資産税)5円以上を納税した者」にしか選挙権を認めておらず、これを聞いた喜多は大いに憤慨します。
「権利と義務は一体であるはず。こちらがきちんと税金を納める『義務』を果たしているにもかかわらず、私が女性であるというだけで選挙に参加する『権利』が与えられない理不尽に対して、断固抗議する!」
それで何をしたかと言えば、これまできちんと納めていた税金を滞納。もちろん高知県から督促状が届きましたが、喜多は「代表なくして課税なし(意:参政権が認められないなら、納税もしない)」の信条を曲げることなく、税金の代わりに抗議文を提出。
【原文】……(前略)……婦女ハ権利ノ無キモノナレバ税ヲ収ムノ義務モ又男子ノ並ニハ尽シガタク……(後略)……
【意訳】男性と同じ権利を認めないなら、納税の義務を男性と同じように果たす訳には参りません。
その内容は至極もっともながら、事なかれ主義の高知県は喜多の要求を拒絶したため、その矛先は東京の内務省まで向かう事になりました。
……結局、その選挙では投票できなかったものの、喜多の必死な思いが通じたのかはともかく、明治十三1880年9月20日に発布された区町村会法では、各区町村に選挙規則を制定する権限が認められました。
つまり、女性の投票する権利も区町村で自由に決められる……それを知った喜多は、もちろん地元行政に猛プッシュ。かくして、日本で初めての女性参政権(※ただし戸主に限る)を実現します。
※ちなみに、世界で初めて女性参政権を認めたのは米国ワイオミング州議会で、今回の例は世界でも二番目という画期的なものでした。