今日の味方は明日の敵にもなり得る戦国時代。数多の戦国武将が味方や親族によって裏切りや謀略で命を落としていく中、友情に厚く義理堅い戦国武将もいました。
しかしながら、その友情の厚さが故に思わぬ結末になってしまった戦国武将も中にはいました。
その人物は九州地方で名を馳せた相良義陽(さがら-よしひ)です。今回は義陽の友情の厚さが招いた悲劇を紹介したいと思います。
同盟を結んだのに島津家と対立へ
義陽は肥後国の大名、相良家の17代当主です。当主になった当初は叔父たちの反乱や家臣たちの内紛が起こり前途多難でしたが、それを乗り越え勢力拡大中であった島津家と同盟を結びました。
しかし、義陽は伊東氏との同盟を結んだことで島津家との同盟を破り、対立します。そして、島津家が天正6年(1578)に耳川の戦いで大友宗麟を破ると義陽のいる領地にまで進撃。
勝てないと感じた義陽は天正9年(1581)に島津家に自身の息子を人質に差し出し降伏、島津義久に従属しました。