豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【四】

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豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【一】

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば天下人・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の後継者として多くの歴史ファンにその名を知られている人物ですが、実はもう一人「豊臣秀頼」がいたことをご存じでしょうか。…

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】

前回のあらすじ[caption id="attachment_108420" align="aligncenter" width="500"] 豊臣秀頼と言えば、秀吉の後継者が有名ですが……。[/…

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【三】

これまでのあらすじ豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば、ご存じ天下人・豊臣秀吉(ひでよし)の後継者ですが、実はもう一人「秀吉公認の豊臣秀頼」がいるのです。彼は戦国時代、尾張国の守護・斯波…

豊臣秀頼(とよとみ ひでより)と言えば豊臣秀吉(ひでよし)の後継者が有名ですが、実は戦国時代に秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」がいました。

その人物は幼くして父(尾張国守護・斯波義統-しば よしむね)を亡くし、織田信長(おだ のぶなが)の家臣・毛利十郎(もうり じゅうろう)の養子となって元服。毛利長秀(もうり ながひで)と名乗ります。

その後、信長の馬廻として桶狭間の初陣から幾多の戦場を駆け巡り、石山本願寺や武田・上杉と言った強敵を相手に武功を重ねてきました。

戦に明け暮れる中、養子に迎えた安藤源五(あんどう げんご)を手塩にかけて鍛え上げ、ついに天正十1582年の甲州征伐で初陣を果たさせたものの、滅びゆく武田の意地を見せた敵方の激しい抵抗によって源五は討死。

戦場に身命を賭するは武士の習いとは言え、最愛の息子を失って悲歎に暮れる中、せめてもの慰めか論功行賞で信州伊那郡の飯田城(現:長野県飯田市)が与えられ、とうとう一城の主となった長秀ですが……。

城を奪われたリベンジを期して「秀頼」と改名

晴れて飯田城を与えられた長秀ですが、伊那郡を治めた期間は約3ヶ月とごく短いものでした。

と言うのも「本能寺の変(天正十1582年6月2日)」によって信長たちが変死を遂げたことで、いまだ主君を滅ぼされた恨みに燻っていた武田の残党が俄かに勢いづいたのです。

松尾城主(現:長野県飯田市)・小笠原掃部大夫信嶺(おがさわら かもんのたいふのぶみね)の裏切り(※)もあり、形勢不利とみた長秀は飯田城を放棄して尾張国まで退却。飯田城は武田の残党・下条兵庫助頼安(しもじょう ひょうごのすけよりやす)の手に落ちてしまいました。

(※)とは言うものの、長秀は信長の命によって信嶺の暗殺を企み、しくじっているため、恨まれてしまうのも仕方ないところです。

「おのれ兵庫助!いつか必ず飯田城を奪還してくれるわ……!」

怒りに燃えた長秀は、リベンジを期して秀頼(ひでより)と改名。長秀の尻(名前の末尾)である「秀」の字に、頼安の頭文字である「頼」を敷いてやろう、という決意の表れとも考えられます。

あるいは亡き主君・信長の長よりも、これからの台頭が見込まれる羽柴藤吉郎秀吉(はしば とうきちろうひでよし)にあやかろう、取り入ろうとして秀吉の「秀」の字を名前の頭にもってきたのかも知れません。

以降、長秀あらため毛利秀頼は秀吉に仕え、槍働きよりも謀臣としての手腕を発揮するのでした。

3ページ目 小牧・長久手の戦いで敵を調略、秀吉の逆転勝利に貢献!

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