古今東西、戦傷(いくさきず)と言うものは何かと話のタネにされたもので、子供のころは銭湯などでご老人が頼みもしないのに腹やら肩やら、爆弾やら鉄砲の傷痕を見せてきては「これは満州で……」「これは南方で……」など、九死に一生の武勇伝を語ってくれたものでした。
この必死の活躍を、誰かに知ってもらいたい、できれば認めてもらいたい……きっとそんな思いがあるのでしょうが、その心情は遠い昔の武士たちも同じでした。
そこで今回は、平安末期「保元の乱」で活躍したとある坂東武者のエピソードを紹介したいと思います。
強敵!鎮西八郎こと源為朝
今は昔の八百余年、朝廷で繰り広げられた後白河天皇派と崇徳上皇派の権力争いが、武力衝突にまでエスカレートした「保元の乱(保元元1156年7月)」では、源氏も平氏も各々が敵味方に分かれて戦うこととなりました。
今回の主人公である大庭平太景義(おおばの へいだ※1かげよし)は弟の三郎景親(さぶろうかげちか)と共に後白河天皇方の源義朝(みなもとの よしとも)に従い、崇徳上皇方の立て籠もる白河殿(しらかわどの。現:京都府京都市左京区)の攻略に当たりました。
「……来おったか。この鎮西八郎の弓を受けてみよ!」
ここを守っている上皇方の大将は、弓の名手として西国に名高き鎮西八郎こと源為朝(みなもとの ためとも)。
八人張り(※2)の強弓を軽々と引く怪力と、右腕より四寸(約13センチ)も長い左腕を併せ持った「弓矢の申し子」。自慢の腕前を発揮して、後白河天皇方の武者雑兵らを次々と射止めていきます。
あまりの弓勢(ゆんぜい。矢の勢い)に恐れをなす者も続出、攻めあぐねる中、しびれを切らした義朝が、平太と三郎を叱咤します。
「その方(ほう)ら、ここが命の張り時ぞ!坂東武者の意気地を見せよ、いざ攻めこめ!駆け込め!」
【原文】「相模の若党、何(いつ)の料(りょう)に命を可惜(おしむべき)ぞ。責(せめ)よ責よ、蒐(かけ)よ蒐よ」
【意訳】「相模(現:神奈川県)の若武者たちよ。何のために命を惜しむのか。攻めよ、駆けよ」
※『保元物語』白河殿攻メ落ス事 より
ここで退いては坂東武者の名折れ……平太と三郎は馬に鞭を入れると、一気呵成に敵が降らせる矢の雨をかいくぐり、白河殿へと殴り込んだのでした。
(※1)原文ママ。
(※2)8人がかりでないと弦をかけられないほどの強い弓。