「御堂関白」といわれた藤原道長。実は生涯、関白になることはなかった

湯本泰隆

古代の名族、藤原氏の全盛期を築いた藤原道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の貴族でした。995(長徳元)年に内覧、右大臣の位につき、藤原氏の氏長者になりました。

内覧とは天皇への奏上や天皇からの命令などの文書を事前に見る官職のことで、仕事の内容は関白の任務とほとんど同じですが、正式には関白とは別の役職となります。氏の長者とは、氏(親族集団)の統率者であり、道長は藤原一族の頂点にたったわけです。さらに、1016(長和5)年、摂政となり、翌年、太政大臣の地位にまでのぼりつめました。

その後、道長は自らの権勢を誇り、「此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)という、満足感に溢れた道長の笑みが目に浮かんでくるような歌を詠んでいます。

道長はまた、『源氏物語』の作者・紫式部との色恋も指摘され、地位と財だけでなくロマンスも手にした色男でもあります。この道長が残した日記が『御堂関白日記』と呼ばれているものであり、その署名にもあるように後世の多くの日本人が、道長が関白になったと勘違いしています。

関白は内覧同様、天皇より先に奏上を一覧し、天皇を補佐する重職で、藤原氏の一族の有力者たちが代々任命されており、道長の兄・道隆、道兼、そして道長の子である頼通、教通も関白をしています。彼ら以上の実力を手にした道長のこと、当然関白になっているだろうと思いきや、道長は生涯、関白になることはなかったのです。

3ページ目 実は苦労人だった青壮期

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