元来、日本刀は左側に差すので必然的に右腕を使い抜刀します。このようなことから考えると日本刀は右利きの方が有利なものといっても過言ではありません。
しかし、右利きの剣士が多い中で左利きの剣士も存在していました。
今回は左利きにも関わらず、天保の三剣豪に数えられた侍、大石種次(おおいしたねつぐ)の勇姿をご紹介します。
生まれた時から剣士としてスパルタ教育
種次は寛政9年(1797)に筑後国(現在の福岡県)に生まれました。大石家は代々剣術師範として活躍していたので種次も5歳のころから祖父の指導を受け、新陰流剣術と大島流槍術を学びました。
しかし、種次は不器用で何をやってもうまくいかないので愚鈍と評されていました。
敗北の悔しさが糧となる
そんな種次にある転機が訪れます。ある年の正月に行われた御前試合で種次は敗北を喫してしまいます。幼少期から剣術修行をしてきた種次に取ってこの敗北はどんなに悔しかったことでしょう。
そこから種次は人が変わったように修業を始めます。石に紐をつるしてひたすら突き技を研鑽した結果、胴切りや利き腕である左腕を利用した独自の左片手突きを考案しました。
こうして種次は自身で編み出した技と流派を大石神影流と称しました。この時、種次はまだ18歳でした。