鎌倉幕府が崩壊するころの天皇家はこれまで政界に顔を出し政治を牛耳るイメージとは打って変わって鎌倉幕府と戦うために鍛えた武人としてのイメージが強くなっていきました。
その天皇家の中で特に異彩を放つ人物、護良親王(もりよししんのう 又は もりながしんのう)がまさにパーフェクトヒューマンと言っても過言ではないくらい飛び抜けていました。
今回は護良親王がパーフェクトヒューマンたるポイントを皆さまにお伝えします。
高貴な血筋
延慶元年(1308)に生まれた護良親王は親王と名前がある通り、皇族の生まれです。親は後醍醐天皇であり、当時最もイケイケだった天皇の皇子とあったので性格も後醍醐天皇を凌ぐほどの気性の荒さだったそうです。
後醍醐天皇はそれでも聡明な部分がある護良親王を気に入っていましたが、6歳の時に天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に出家させています。
その理由は後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕するにあたって、一勢力の僧兵を組織化することが重要と考えたと言われています。