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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第31話
文政九年 桜の三月
文政九年、三月一日。
仲之町に、つい三日前まではなかった桜が今年も植えられた。
みつはこの日初めて、国芳と桜を見た。
国芳の方から花見に誘ったのである。
みつの歩く一歩前に、国芳の広い背中が在る。
どんな絵師よりもきっと鮮やかな絵を描く国芳の目に、この桜はどう映えるのだろう。
そんな事を思いながらぽつぽつと後ろを歩いた。
「おみつ」、
国芳が急に振り返って、ふわりと手を差し伸べた。
繋いだ手が今までで一番、優しい。
こんな時にも桜が純白や薄灰にしか見えない自分の目を、みつは少し恨んだ。
「あたしやっぱり、もう一度だけでいいから、国芳はんと同んなじように桜の色、見たかったよ」、
みつは十二の時の熱病以来、色覚を失っている。
「国芳はんならきっと、この桜、綺麗に描くんだろうね」
「何言ってんだ」、
国芳は首を横に振った。
「わっちはこの桜を、今おみつの目に映る以上に綺麗に描けやしない。めえはもっとその目に自信を持たなきゃいけねえ」
国芳はみつを振り返って、にこりと微笑した。その笑顔が余りに清々しく澄み渡っていて、みつは泣きたくなった。
「うん」、
「そうだね」。
「あたし、忘れないようによっく目に焼き付けておくね」
「わっちもそうすらア」
今日だけは、国芳は矢立と筆を取りださなかった。京町一丁目の水道尻の方から大門に向けて二人でゆるゆると桜の並木を歩き、揚屋町のあたりで国芳は足を止めた。そして振り返り、みつの肩を掴んだ。
「なあ、おみつ、聞いてくれ」
いつになく真剣で思い詰めた目をした国芳に、思わずみつは破顔した。
「なあに」
「わっちゃア、仕事で今日以降しばらく来れねえ」、
みつの睫毛が、ほのかに揺れた。
「次がいつになるか、分からねえんだ」。
・・・・・・