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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第29話
■文政八年、秋の八朔(2)
「入エるぜ」
障子戸の向こうから声がかかり、すっと開いた。
みつはふわりと振り返った。
「英泉はん」
現れた英泉の着物は、黒に近い紺地に流行りの蝙蝠(こうもり)を白く抜いた洒脱さである。
彼はちょうど同じような柄を作品にも描いている。
彼はまさに蝙蝠が羽ばたくようなアクの強い声で笑った。
「よう、紫野花魁。あーしが仕立てた宴席で一刻もくたばってるたあ、なんてエ太エ野郎だろうね、この国芳てえのは」
「ええ、ほんに」・・・・・・
今宵のみつの白無垢も道中も、花代から宴席の仕出しに至るまで何もかも、英泉の援助あってこそである。みつは申し訳なさそうにうなだれた。
「しかしなんだね、この人の絵を見るにつけ、あーたがこの国芳に惚れる理由が分かったよ。認めよう。あーしの負けさね」
眉をハの字にして首をすくめた英泉の剽軽(ひょうきん)さに救われて、みつはふふっと喉の奥で笑った。金に糸目をつけぬ江戸ッ子英泉の気っ風の良さである。英泉は更に、
「この人ア、これから梁山泊(りょうざんはく)を目指す水滸伝の豪傑そのものだな」
そんな風に言った。どうやら国芳を気に入ったらしい。
梁山泊。
水滸伝の物語において、百八の豪傑たちがそれぞれの戦闘を繰り広げながら、最終的に集結する大水郷である。
(この人の言う梁山泊とは一体何処なのだろうか)、
浮世絵師の目指す梁山泊とは。
みつは英泉を見上げて思った。その遥かな響きに、なぜだか目の奥がつうんと沁みた。
「こいつとだったら、一緒にこの日本がひっくり返エるような事を企むのも楽しいかもねえ」
英泉は顎に手を当て、楽しげに鼻の穴を膨らませた。みつは心配になり、
「ちょいと、岡っ引きにでも聞かれれば捕まりなんすえ」
「まさか。清河の松平定信の治世は今は昔の話さ。誰にもあーしらを捕まえる権限なんざねえ。今の公方様はてえへんな子沢山で、あーしら道楽者の気持ちの分かる人だと聞いているよ」
英泉はお上なぞ屁でもねえという表情でケケケッと笑った。
現将軍の徳川家斉は側室四十数人、子供は既に五十人以上おり、世間では「俗物将軍」などと呼ばれている。しかし、同じ「俗物絵師」の英泉に言わせれば、生真面目すぎる将軍よりよっぽど面白い。
「これからア、あーしらの時代だ。あーしはあーしの大義に従って、ひたすらに手前が面白えと思う物を描いて、江戸の皆がびっくりしたり楽しいと思うものを手元に届けるさ」
「それが英泉はんの大義・・・・・・」
唐変木(とうへんぼく)で掴み所のない英泉にも「意気地」という真っすぐな芯がある。それを知ったみつは、キュッと小さな手を握りこんだ。
「ナア、花魁。艶本やら俗本の事を、『わ印』っつうだろ」
「ええ」
「『わ』は、笑いの『わ』だ。笑う本だから『わ印』だ。人間、ワッハッハと笑う時こそ、生きてるってえ心地もすらア。だから、あーしゃアそういう本を描き続ける。浮世なんざ面白くなきゃ、意味もねえのさ」
笑い声とは裏腹に、黒目の小さな英泉の目には熱い焔が轟々燃えていた。今更気がついたが、英泉の描く女の目は英泉自身の目にそっくりである。見るからに捻くれていて、しかし、強い。