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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第23話
■文政八年 梅雨
吉原遊廓にも、梅雨が訪れた。
仲之町の花菖蒲の花弁を濡らす露さえも、娑婆のそれとは違ってしっとりつやめいている。
京町一丁目岡本屋の紫野花魁は、最近いつも針仕事をしている。
何を縫っているのかは分からない。一階の針子部屋から刺繍台を借りる姿を見た者がいるから、おそらく刺繍に執心しているのだろう。
去年までは陽の明るいうちは蒲団にこもって寝ている事が多かったのに、最近の紫野は何か別人のように活動的である。
その紫野花魁に、若い衆の直吉はとある頼まれ事をしていた。
吉原遊廓を出て、娑婆(しゃば)の貸本屋で本を借りてきてほしいという頼みであった。
「傾城水滸伝」という合巻だ。
今年の早春に日本橋通油町の有力地本問屋である鶴屋が初編四冊を出版して以来、「傾城水滸伝」は江戸で爆発的な人気を誇っている。書いたのは人気戯作者曲亭馬琴、挿絵は浮世絵界の大御所、歌川豊国である。
江戸を代表する二人の合作だから売れて当たり前だが、その売れ行きは地本問屋の想像をはるかに凌駕した。初版は数千部が瞬く間に売り切れ、その後版木が二度も摩耗して、三板まで彫り直したという。
寛政期に伝説的な売れ行きを記録した恋川春町の「鸚鵡返文武二道」ですら、こう飛ぶようには売れなかったであろう。もとは一部の識者のものでしかなかった本というものが寛政以来、蔦屋重三郎をはじめ多くの地本問屋や絵草子屋の努力によって庶民にぐっと身近なものになった。今や、籠の鳥の女郎たちまでもが読本を手に腹を抱えて笑う時代である。
しかし、娑婆の本屋で容易に手に入らないものが、おはぐろどぶに囲われた吉原の廓内(なか)の本屋で手に入る筈がない。「傾城水滸伝」は半年待っても廓内には入荷しなかったため、いよいよ外の貸本屋まで直吉は走ったのである。
「もしえ花魁。紫野花魁!」
「あいな、お入り」
直吉は、すっと襖を開けて紫野花魁の部屋に入った。座敷とは別に八畳もあるこの部屋は、この岡本屋で一番格の高い看板花魁の象徴である。紫野はその部屋の中央でやはり針を持ち、拡大眼鏡をかけて手ぬぐいらしき布に刺繍をしていた。傍ではぶち猫がつまらなさそうにその作業を眺めている。
行燈(あんどん)もつけずにひどく暗い部屋の中で、紫野が顔を上げて微笑んだ。
「ああ、ちゃんと借りてきてくれたね」
「へえ、外は泥濘(どろ)だらけでとんでもねえですよ。花魁ア出られたもんじゃあねえや」
直吉が膝でにじり寄ると、紫野は台を背後に押しやって刺繍が見えないように隠した。
「なんでえ、使いっ走りのお駄賃にそれ、見せてくだせえよ」
「駄目よ」
猫が男を不愛想に一瞥し、するりと紫野の傍をすり抜けてどこかへ出て行った。
「チェッ」
直吉は仕方なく頼まれていた本を懐から出して、紫野に手渡した。黄表紙を何巻か集めて綴じたその表紙には美しい女が描かれていて、端に「傾城水滸伝」とある。紫野はほっそりした指でそれを受け取り一言、
「温かいね」。
「懐で温めておきやしたから」
「そういえば秀吉公は、主の草鞋を懐で温めたんだっけ」
「俺が猿だって言いてえんですかい」
「違うよ。直坊、いつもありがとう」
皮肉っぽい直吉の口ぶりにも、紫野花魁は優しい言葉で素直に返してくれる。
何だかむず痒くなった直吉は頬を掻いて、
「そりゃあ、俺アね」、
と半分照れながら言った。
「花魁の言う事ア、何でも聞きますよ。直吉の直は、素直の直ですから」
「頼もしいね」
へへ、と直吉は笑って鼻をこすった。
「あたしが読んだら、直坊にも貸してあげるよ。これ」
「ありがとうごぜえやす、花魁」