皇子を全て臣下に下した光孝天皇
「百人一首に歌を取り上げられた天皇にはある共通点があった:平安時代編」でもご紹介しましたが、陽成院が若くして退位を余儀なくされた後に即位したのが、当時55歳の光孝天皇でした。
光孝天皇には沢山の皇子・皇女がいましたが、即位した元慶8(884)年の4月に全員を臣籍降下させました。これは陽成院の時代から関白を務めた藤原基経の妹・高子が陽成院の弟の貞保親王の生母であったため、その立場を考慮したためでした。光孝天皇は、自身をあくまでも「中継ぎの天皇」であると考えていたのですね。
後に宇多天皇となる光孝天皇の皇子・定省(さだみ)王も、このときに「源」の姓を賜り、「源定省」として臣籍に下されました。
父は天皇の叔父(後に天皇)、母は天皇の孫娘という高貴な血筋に生まれた源定省にとっては、まさに試練の時代の始まりでした。現代の皇位継承問題で「旧皇族の皇籍復帰」が議論されましたが、当時は臣籍降下された元皇族が天皇になれた前例はなかったのです。
後に自分自身がその「前例」になろうとは、この時の定省には知る由もないことでした。