ここ数年、日本への観光客が増えており、世界遺産が目当ての方々も多くいると言われています。中でも2011年に世界遺産に奥州藤原氏ゆかりの平泉(岩手県)が登録されたことは記憶に新しく、藤原氏が支配した出羽(山形県)出身である筆者としては誇らしく、震災の直後だったのもあって心の支えともなりました。
今回は、黄金に彩られた東北の英雄・奥州藤原氏について紹介します。
八幡太郎義家とも縁深い初代・藤原清衡
藤原清衡(ふじわらのきよひら)は天喜4年(1056年)、陸奥国亘理郡(宮城県)の豪族・藤原経清の嫡男として生まれ、藤原秀郷の子孫とも言われますが、母方は先住民である蝦夷の血を引いていたと言います。
父が前九年の役に負けて処刑された後から清衡は苦難続きで、母の再婚先や腹違いの弟との抗争、都の権力者による蛮人扱いなど、数多くの苦難を受けます。しかし、後三年の役では八幡太郎の異名をとった源義家と共闘して覇者となり、奥州藤原氏の基礎を固めました。
清衡は平安時代にはまれな長寿を誇り、天寿を全うして亡くなるまで東北地方の発展に貢献し、大治3年(1128年)に73歳で亡くなりました。彼の遺体はミイラとして中尊寺金色堂に安置されており、身長159センチの痩せ形でAB型の血液型だったことが証明されています。
2ページ目 都の貴族にも喧嘩を吹っ掛けた武闘派の2代目・藤原基衡