どこで違った、二人の道。西郷隆盛と大久保利通の友情と決別 [後編]

小山 桜子

前編では、西郷隆盛と大久保利通が薩摩藩内で敵対する権力グループに属していたものの、友情は繋がっていたという話をしました。

どこで違った、二人の道。西郷隆盛と大久保利通の友情と決別 [前編]

西郷と大久保をとりまく薩摩藩の内部事情薩摩の西郷隆盛と大久保利通といえば、二人して討幕に奔走し、明治政府樹立を成し遂げた立役者です。二人は、生まれた時から家も近く、幼馴染であり無二の親友でした。共…

さて、その後は光と影のように互いを必要とし、協力して明治維新を成し遂げた二人でしたが、二度目の決別は、明治に入ってからでした。

欧米視察に行った大久保、日本に残った西郷

明治4年、ようやく政府が船出にこぎつけ、これから地盤を固めようという時に大久保は岩倉遣欧使節の一員として、欧米へ渡ります。

同時期、西郷は政治家になるという野心もなく、鹿児島に帰って隠居しようと考えていました。しかし政府の要人の大半が岩倉遣欧使節として欧米に渡る事となり、西郷は隠居どころか、残されたわずかな人数で留守政府の舵取りをしなくてはならなくなりました。

富国強兵のために欧米視察は必須だったとはいえ、居残り組にしてみればたまらない心境だった事でしょう。当時の明治政府はまだ盤石ではなく、農民の一揆は江戸時代より増え、また仕事を無くした不平士族が今にも反乱を起こしそうな雰囲気がありました。その中で重要な政治家たちが大勢で欧米視察に行くという政策は、西郷たちにしてみればあまりにものんきすぎる内容でした。怒った西郷は、彼らの留守中に新しい政策は行わないという約束を破り、征韓論を唱えます。

楊洲斎周延「征韓論之図 」出典元:国会図書館

3ページ目 かけ離れてしまった大久保と西郷の思想。そしてそれぞれの最期

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