一年を通じて全国から多くの参詣者を集める伊勢神宮。同神宮は、「日本国民の総氏神」と称され、また「日本人の心のふるさと」と言われています。
本稿ではその理由を、皇祖神・天照大神の存在と、明治新政府による神道国教化という二つの視点から、全2回に分けて考察します。
[前編]の記事はこちら↓
なぜ伊勢神宮が「日本人の総氏神」と称され別格扱いされるのか?——神社と神様の素朴な疑問【前編】
[後編]では、明治新政府による神道の国教化政策によって確立された伊勢神宮の地位と終戦後の伊勢神宮について、焦点を当てていきましょう。
伊勢神宮が今のような形になったのは7世紀後半
伊勢神宮は、いつの時代に創建されたのでしょうか。伊勢神宮の公式サイトには、その始まりは「約2000年前」と記されています。
それによれば、「天孫降臨以降、天照大神は天皇の御側で祀られていたが、第十代崇神天皇は、御殿を共にすることを恐れ多いと感じられ、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立てて大神をお祀りした」とされています。
さらに、「第十一代垂仁天皇の皇女・倭姫命は、永遠に神事を続けることのできる新たな地を求めて大和国を出発し、伊賀・近江・美濃など諸国を巡った末、伊勢国に至った。その地を天照大神が気に入られ、『この国に留まろう』との神意を示されたため、倭姫命はその御教えのままに五十鈴川の川上に宮を建てた。これが、約2000年前に遡る皇大神宮御鎮座の始まりである」と説明されています。
一方、史実の観点から見ると、7世紀後半に律令制が完成した時点で、伊勢神宮は神社の中で頂点に位置づけられる社格を与えられていました。
ただし、神社の社格制度について『日本書紀』を参照すると、崇神天皇7年11月の条に「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定めた」との記述が見られます。崇神天皇の治世をいつの時代と捉えるかによって、伊勢神宮の創建年代については、まったく異なる解釈が生じることになります。
崇神天皇を、実在が確認できる最初のヤマト政権の大王と考えるならば、その年代は3世紀末から4世紀初頭とされます。しかし、その時期にすでに社格制度が確立していたと考えるのは、あまりにも時代的に早すぎるように思われます。
律令制が本格的に整備されるのは、やはり7世紀後半の天武・持統朝以降です。『日本書紀』には673年、「天武天皇が皇女・大伯皇女(おおくのひめみこ)を泊瀬に参籠させて心身を清めさせ、その約1年半後に伊勢へ遣わして斎宮とした」と記されています。
この記述を信用するならば、この時点ですでにどのような形にせよ伊勢神宮は存在していたことになります。しかし、『続日本紀』の698年、文武天皇の条には「多気の大神宮を渡会郡に遷す」との記載があり、これを伊勢神宮内宮の遷宮と解釈する説もあるのです。
こうした史料を踏まえると、現在私たちが目にする伊勢神宮の原型は、7世紀後半に完成したと考えるのが妥当ではないでしょうか。すなわち、伊勢神宮の創建は、約1400年前と見ることができるのです。
そして、天皇を神(現人神)と位置づけた天武天皇のもとで、伊勢神宮は他のすべての神社を超越する社格を与えられ、その頂点に立つ存在となったと考えられます。
ただし、伊勢神宮の性格を考えるうえで留意すべき点があります。それは、国家の神として天皇による公的祭祀が行われる場であったため、貴族から庶民に至るまで、個人が私的に幣帛を奉る行為が原則として禁じられていたことです。
つまり、伊勢神宮はある時代までは「日本人全体の氏神」としての存在ではなかった、ということになるのです。
