郷土料理はもともと「日常食」
郷土料理という言葉は、現代ではごく普通に用いられていますが、この言葉はごく新しいもので、近代以降の文化および社会の変化の中で生まれたものです。
そもそもの話として、日本人が各地域で日常的に食べていた料理は、長らく「郷土料理」として特別に意識されることはなく、単に「その土地で食べられているもの」に過ぎませんでした。
では、いつ、どのようにして「郷土」と「非郷土」の区別が生まれたのでしょうか。
江戸時代以前、日本の食事は地域ごとの自然環境に強く依存していました。山間部では保存性の高い漬物や乾物が、また沿岸部では魚介類を中心とした料理が発展しました。
これらの多くは、今では郷土料理のカテゴリーに入ると言われても違和感はありません。しかしそれらは原初の形態としては、ただ単に人々の生活の必然として存在していたのです。
例えば、秋田の「きりたんぽ」や山形の「芋煮」は、米や里芋といった地域の農産物を活かした料理であり、地域の人々にとっては日常食でした。
「伝統」の再構築
明治期に入り、鉄道網の整備や都市化が進むと、各地の食文化が他の地域の人々の目に触れるようになりました。
駅弁や観光地で提供される料理は、その土地を象徴するものとして紹介され、やがて「郷土料理」というカテゴリーが形成されていきます。
つまり、郷土料理は「外部の視点」によって情報化されたのです。
さらに言えばこの「外部」とは、情報の集約地であり、同時に発信地でもある東京などの大都市のことであり、そうした大都市が非都市である地方の文化を紹介するという過程があって、そこで初めて郷土は「郷土」として成立したと言えるでしょう。
ちなみに大正から昭和初期にかけて、柳田國男ら民俗学者が各地の生活文化を調査し、食事もその研究対象となりました。こうした研究活動は、上記のような情報の集約と発信という過程があって「郷土」が成立した、最も分かりやすい例と言えます。
こうして、郷土料理は地域文化の象徴として語られるようになったのです。
ここで重要なのは、郷土料理が「伝統」として再構築される過程です。
地域の日常食が「郷土料理」という形である種の文化財として認識され、そうした文化財としてのイメージ・情報がさらに地域へと逆輸入されることで、郷土料理は単なる食事から地域アイデンティティの表現へと昇格していったのです。
