朝ドラ「ばけばけ」には、多くの魅力的な人物が登場します。
登場人物の多くが実在した人物をモデルにしていました。小谷春夫のモデル・藤崎八三郎もその1人。
以前の記事で、小谷春夫のモデルとなった、のちに英文学者となる大谷正信を紹介しましたが、
朝ドラ「ばけばけ」史実でトキとの関係は?松江中の生徒 小谷春夫のモデル、小泉八雲の愛弟子・大谷正信の生涯
実は春夫にはもう一人、モデルとされる人物がいるのです。本記事で紹介する藤崎八三郎は、松江尋常中学校でラフカディオ・ハーンに師事。英語力での薫陶を受けて新たな世界へ羽ばたきます。
八三郎はどのような人物だったのか。どのように生き、何を感じて過ごしたのでしょうか。
藤崎八三郎の生涯を見ていきましょう。
八雲の「最も記憶に残る」教え子
藤崎八三郎とは一体何者だったのでしょうか。
実は彼の生年も明らかになっていません。しかしのちの高等学校進学年齢及び没年から逆算して、生年は明治8(1875)年前後と推定されます。
八三郎が最初に名乗っていたのは小豆沢という名字でした。
松江で小豆沢といえば、最初に思い浮かぶのが江戸時代には松江藩の御用商人を務めていたほどの富裕な商家です。同家は松江の末次苧町で金融業を営み、大変な隆盛ぶりで知られていました。
当時の松江尋常中学校に入学できる生徒は、富裕な家や優れた学識を兼ね備えた人物がほとんどです。
八三郎が小豆沢家と関係があった可能性は非常に高いと思われます。
明治23(1890)年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日。松江の島根県尋常中学校の英語講師として赴任します。
当時の八三郎の年齢は推定で14歳前後。修学年齢であると仮定すると、ここで出会っていたようです。
八雲は自身の随筆「英語教師の日記から」で、八三郎について触れていました。
曰く彼を「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」と言及。非常に親しい関係を築いていたことがわかります。
八雲は1年3ヶ月の松江滞在ののち、今度は熊本県に赴任。その後も八三郎と文通は続いてゆきました。
八三郎は、特に八雲の執筆資料の収集や提供において奔走。その後発表される『家庭の祭壇』や『英語教師の日記から』につながることとなりました。
