呪詛など効かぬ!占いを嘲笑い合理で勝つ――戦国最初の合理主義者・朝倉孝景の智将ぶりが凄まじい

湯本泰隆

戦国時代といえば、占いで戦の日を決めたり、凶兆を恐れたりと、迷信が政治や戦の判断を左右する時代でした。しかし、その常識を軽やかに踏み越えた男がいます。

越前(今の福井県)を治めた戦国大名、朝倉孝景。彼は「運」ではなく「分析」で戦い、呪われても平然と構えた戦国最初の合理主義者でした。

そんな彼の生涯をたどると、まるで現代の“ロジカル・リーダー”のような姿が浮かび上がります。

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若き日の孝景――越前に生まれた知略の芽

朝倉孝景が生まれたのは1428年。世の中は足利将軍家の権威が衰え、地方の武士たちが力を競い始めた混乱の時代でした。朝倉家はもともと越前の名門・斯波氏の家臣で、長い間この地を守ってきた一族です。

ところが、父が早くに亡くなり、幼い孝景は祖父・教景に育てられます。幼い頃から聡明で、人の話をよく聞き、状況を冷静に分析する性格だったと伝えられます。

戦場では地形を見て戦の流れを予測し、交渉では相手の表情から本音を読む――そんな観察力の持ち主でした。

成長した孝景は、主家である斯波氏の内部抗争に巻き込まれます。しかし、彼はその混乱を冷静に読み切り、最終的に勝ち残る側につくことで、勢力を拡大しました。この時点で、すでにただの武勇の人ではなく、先を読む戦略家として頭角を現していたのです。

京都で「応仁の乱」が勃発すると、孝景は最初、西軍に味方して参戦しました。ところが、戦局を見極めると、なんと途中で東軍へ寝返ります。この大胆な裏切りによって東軍は優位に立ち、戦乱は終息に向かいました。

当時、武士の忠義は絶対とされていましたが、孝景は感情ではなく「情勢判断」で動いたのです。

「どちらにつくか」ではなく、「どうすれば越前を守れるか」。その視点の転換こそ、彼を戦国最初の“戦略的リーダー”へと押し上げた要因でした。

2ページ目 呪詛すら通じぬ合理主義者

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