NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の劇中では、粗相をした家臣を鉄砲の的にするなど、視聴者に強烈なインパクトを刻みつけた松前道広(えなりかずき)。御三卿・一橋治済(生田斗真)と組んで、破天荒な悪役ぶりを見せつけました。
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そんな父親を持ったら苦労するだろうな……と思ったら、やはり息子は苦労していたようです。
という訳で、今回は松前道広の嫡男・松前章広(あきひろ)の生涯をたどってみましょう。
幕府に蝦夷地を召し上げられる
松前章広は安永4年(1775年)7月30日、平田氏との間に誕生しました。
幼名は勇之介、のち元服して松前敷広と称し、さらに章広と改名します。
寛政4年(1792年)10月28日、破天荒(吉原での豪遊はじめ放蕩三昧)が過ぎて隠居させられた?(自分から大人しく隠居するとは思えません)父の跡を継ぎました。この時18歳、早くも前途が危ぶまれますね。
そんな不安は見事に的中し、25歳を迎えた寛政11年(1799年)3月21日、蝦夷地の所領を幕府に召し上げられてしまいました。
蝦夷地はかねてより上知(所領の召し上げ)が狙われており、ロシアの脅威から日本を防衛するという名目です。
「松前家に蝦夷地を任せておったら、本当に戦争が起こりかねんわい!」
実は3年前の寛政8年(1796年)、英国船プロビデンス号がアプタ沖(北海道虻田郡洞爺町)に出没した際、道広が鼻息荒く出陣したことがありました。
「おやめ下さい!穏便に済むものも済まなくなります!」
「黙れ!そんな弱腰だから毛唐どもに侮られるのじゃ!」
一度やると決めたら、周囲の反対など聞き入れる道広ではありません。
結局合戦とはならなかったものの、章広はじめ家中一同、気が気ではなかったことでしょう。
そんなことがあったからか、蝦夷地を召し上げられてしまった章広は武蔵国埼玉郡(埼玉県)に五千石を与えられ、大名ではなくなってしまいました。
