「皆 己の金のことしか考えぬ。さような田沼が作ったこの世に殺されたのだ!」
それをおかしいと言うことも許されるのか?…
こんな世は正されるべきだと声をあげることも?…
べらぼう32回『新之助の義』で、蔦重(横浜流星)に怒りをぶつける新之助(井之脇海)でした。
前回、妻子の命を奪われた新之助は、貧困の下手人夫婦に己を投影し、責めることができませんでした。飲み込んだ怒りは増幅し、憎むべき矛先は「田沼一択」となり燃え上がりました。
【べらぼう】人々の怒りが頂点に…田沼意次を失脚に追い詰めた「新之助の義」天明の打ちこわしとは?
200年以上前の江戸時代の話なのに、森下脚本で描かれる「べらぼう」の世界は、「まるで令和7年の今のようだ」という多くの声を聞きます。災害・米不足・物価高・己の懐だけを潤す政治家への不信感・陰謀論・生活苦、確かに現代に酷似していますよね。
前回、今回と辛く息苦しい展開が続く中、今回は、新之助と蔦重という二人の男の「義」の対峙が見ものでした。思い返せばこの二人は「平賀源内を師として慕った弟子同士」「吉原の遊女に本気で惚れた男同士」が共通しています。
けれど、片や「武士を捨て、惚れた遊女と逃げ農村で生活をしてきたが生きていけず江戸に戻ってきた男」、片や「惚れた女と結ばれず、吉原者と差別されながら、自力で現状を切り開き大店の主人というポジションを築いた男」。
違う生き方をしてきた二人ですが、新之助には「新之助の義」が、蔦重には「蔦重の義」があったのです。
「米を受け取ったことで失われた命」
ふく(小野花梨)との2度目の駆け落ちが成功し農村で暮らしていたものの、浅間山の大噴火で「よそ者」と村を追い出され、蔦重を頼り江戸に戻ってきた新之助夫婦。住まいや仕事を世話してもらい感謝をしながらも、究極の飢餓を味わってきたゆえか、「生活が苦しいのは田沼のせい」という気持ちを抱いていて、「田沼ひいき」の蔦重に時々、反発をしていましたね。
そんな中、新之助は同じ長屋の住人に妻子を殺されてしまい、行き場のない怒りは「貧しき人々の不満の声を代弁して声を上げる」という義憤となり『天明の打ちこわし』へと突き進んでいきます。そんな新之助を心配して、蔦重は米を差し入れますが彼は受け取らず、仕事の報酬だけを受け取ります。「おふくととよ坊が亡くなったのは、俺が米を受け取ったからとも言える。」と。
新之助に蔦重を責める気持ちはないのですが、確かに長屋に訪れる蔦重の立派な着物や羽織姿は目立ち過ぎました。その姿で風呂敷包みを持って新之助の家を訪れていたので「米の差し入れをもらって食べているから、ふくは乳がでるに違いない」と、その乳を分けてあげている夫婦に邪推されたのが悲劇の発端でした。
