江戸時代に出現した非公認の遊女街「こんにゃく島」の正体と歴史をたどる【べらぼう外伝】

江戸時代、遊女がいたのは天下御免の吉原遊郭だけでなく、江戸近郊にも多くの岡場所(非公認の遊女街)が営まれていました。

参考:

飯盛女や湯女が遊女役。幕府公認「吉原遊郭」の強敵だった非公認遊郭「岡場所」とは?

 Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は幕府公認遊郭・吉原と、非公認遊郭・岡場所との違いに注目します。遊郭がなければ江戸は男だらけそもそ…

今回はその一つである「こんにゃく島(東京都中央区新川地区)」を紹介。その歴史をたどってみたいと思います。

岡場所「こんにゃく島」の盛衰

こんにゃく島が出来たのは明和2年(1765年)、墨田川の河口を埋め立てた土地でした。

正しくは霊岸島(れいがんじま)と言うそうですが、造成直後はまだ地盤がやわらかく、踏むと足場がぐにゃぐにゃしました。

それがまるで蒟蒻のようだから、こんにゃく島と呼ばれるようになったそうです。

せっかく土地を造成したのに、地盤が固まらないことには何も建てられません。そこで当局は地盤を固める名目で、簡素な建物を許可しました。

最初は茶屋や見世物小屋が建ち並ぶようになり、安永2年(1773年)ごろから岡場所が開かれたようです。

海上交通の要衝であったことから人が行き交い、こんにゃく島は大繁盛。昼間は歩くのもやっとというくらいの人出で賑わったと言います。

しかしブームは長く続かず、寛政3年(1791年)ごろから次第に寂れ始めました。次第に客足は遠のき、寛政7年(1795年)には岡場所が廃止されたそうです。

こんにゃく島が寂れた原因として、松平定信が主導した寛政の改革(倹約令、風紀取締など)が考えられます。改革は天明7年(1787年)~寛政5年(1793年)にかけて行われたため、その痛手から立ち直れずに廃れてしまったのでしょうか。

また当初から「岡場所を黙認するのは、地盤が固まるまで」という制約があり、もう地盤が十分に固まった≒岡場所は用済みと当局が判断したのかも知れません。

かくして岡場所「こんにゃく島」は20余年の歴史に幕を下ろしたのでした。

3ページ目 岡場所「こんにゃく島」の遊女たち

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