徳島に暮らしていれば、「蜂須賀(はちすか)」という名前に聞き覚えがある人も多いでしょう。でも、名前の由来まで知っている人は、案外少ないかもしれません。
由来となった人物の名前は、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)。
【前編】の記事はこちら:
徳島の地名に残る「蜂須賀」とは誰? 刀より知恵で国を治めた戦国武将・蜂須賀家政の生涯【前編】
徳島に暮らしていれば、「蜂須賀(はちすか)」という名前に聞き覚えがある人も多いでしょう。駅や学校、橋や施設、いろいろな場所にその名が残っています。でも、名前の由来まで知っている人は、案外少ないかもしれ…
阿波国――つまり現在の徳島県を治めた初代藩主です。大きな時代の波を読み、刀よりも知恵で国を守った「生き残りの名手」とでも呼ぶべき人物の生涯を紹介します。
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豊臣秀吉がこの世を去ったあと、日本の政治の主導権は徳川家康へと移っていきます。
阿波を治めていた家政にも、選ばねばならない時が来ました。旧主・豊臣に忠義を尽くすか、それとも時代の流れに乗るか。どちらが正しいか、簡単に答えが出るはずもありません。けれど家政は、家の存続を選びました。
自身は動かず、息子の至鎮(よししげ)を東軍として関ヶ原へ送り出したのです。これが結果的に功を奏し、蜂須賀家は徳川から所領を安堵されます。
隠居しても“動き続ける人”
1600年、家督を譲って隠居した家政ですが、政務から完全に手を引いたわけではありませんでした。
市の復興、年貢の免除、村の争いの調停……。
肩書きは退いても、土地と人を見つめるまなざしは変わりませんでした。むしろ、気負いが取れたぶん、より地域に寄り添った動きができたのかもしれません。
戦国の武将にして文化人
家政は、単なる政治家や武将といった枠組みで収まる人物ではなかったようです。茶の湯をたしなみ、千利休とも親交を持った文化人でもありました。
さらには、当時迫害されていたキリスト教徒にも理解を示し、密かに保護していたという話も伝わっています。
そうした柔軟な精神性は、激動の時代を生きた男の“芯の強さ”でもあったのでしょう。刀を持つ手とは別に、茶碗を持つ手があった。そう思うと、少し胸が温かくなります。
