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徳川家康の”影の右腕”「平岩親吉」忠義と悲哀に満ちたその苦悩の生涯をたどる【前編】
家康のすぐそばにいた、もう一人の男戦国時代の覇者、徳川家康。その名は誰もが知るところですが、そんな家康のすぐそばに、若いころから晩年まで、変わらぬ忠誠を尽くした男がいたことは、あまり知られていない…
本能寺の変のあと、甲府へ派遣される
1582年、本能寺の変が起こると、親吉はただちに甲府へと派遣されます。当時、甲斐国では武田氏が滅亡したばかりで、政情は非常に不安定でした。
親吉はその混乱の中で甲府城の築城を命じられ、武田の旧臣たちを取りまとめ、新たな秩序を築いていきました。戦場ではなく、人と土地を安定させる――そうした役目も、家康の信頼があってこそ託されたのでしょう。
関東移封と、仙千代との出会い
その後、1590年の小田原征伐を経て、家康が関東に移されると、親吉は上野国厩橋(うまやばし)に三万三千石の領地を与えられます。このとき、家康は八男・仙千代(せんちよ)を親吉に託します。親吉には実子がいなかったため、仙千代を養子として育ててほしいと願ったのです。
信頼の証といえるこの託し――けれど、その未来は、あまりにも儚いものでした。仙千代は、わずか五歳でこの世を去ってしまいます。
信康に続き、仙千代までも失った親吉。その胸中はいかばかりだったでしょうか。我が子のように愛し、大切に育てた命を二度までも失うという経験は、言葉では語りきれない深い痛みをもたらしたに違いありません。
大名として甲府に戻る
1601年、関ヶ原の戦いが終わると、親吉は再び甲府に戻されます。今度は領主として――六万三千石の大名となって、甲斐の国を任されたのです。
そして1603年、徳川家康が征夷大将軍に就任したこの年、家康の九男・五郎太丸(のちの徳川義直)が甲斐一国25万石に封ぜられると、親吉は甲府城に在城し、幼少かつ駿府にいる義直の代理として甲斐統治を行いました。
