生き延びても地獄!幕末の「桜田門外の変」で命拾いした彦根藩士たちの残酷すぎる末路…

時は安政7年(1860年)3月3日、江戸城の桜田門外(東京都千代田区霞が関)で大老で彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ)が、尊皇攘夷派の浪士たちによって暗殺されます。

これが後世に伝わる「桜田門外の変」。井伊直弼らが推進した安政五ヶ国条約(※)など、国を誤らせる政策に対する怒りが暴発した結果でした。
(※)アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスそれぞれと締結した不平等条約で、治外法権(日本国内の外国人犯罪を日本の法律で裁けない)や関税自主権がない(日本だけ輸入関税を決められない)などの内容となっています。

当日は彦根藩士60名ばかりが井伊直弼を護衛しており、防戦の結果多くの者が死傷。生存者については厳しい処分が下されました。

せっかく命拾いしたのに……と思うのは現代人の感覚で、当時としては「主君を守れなかった」「忠義をまっとうできなかった」不覚悟を恥じたのでしょう。

今回は桜田門外の変で生き延びた者たちが、どのような末路をたどったのかを紹介したいと思います。

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井伊直弼の死幕末期、幕府の大老だった井伊直弼(いいなおすけ)が「桜田門外の変」で暗殺されたのはご存じの通りです。[caption id="attachment_185310" align=…

彦根藩の死者9名はどうなった?

※名前の読みや身分については、諸説あります。以下同じ。

浪士たちに討ち取られた井伊直弼はもちろん、命を擲って忠義をまっとうした者たちについては、当然ながらお咎めなしです。

彦根藩の重傷者8名はどうなった?

戦闘によって重傷を負った者たちについては、下野国佐野(栃木県佐野市)へ配流処分とされてしまいました。

現代の基準だと、重傷の定義は1ヶ月(30日)以上の治療を必要とするのですが、当時はどのように判断されたのでしょうか。

その後、彼らが生き延びられたかは、それぞれの回復力と経済力にかかっています。

3ページ目 無傷で帰ってきた5名の末路は……。

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