平安時代、一家三后という前人未到の快挙を達成し、権力の絶頂を極めた藤原道長。
「この世をば……」と望月の歌を詠むほどの権勢を誇り、その子供たちもさぞいい思いをしていたのかと思いきや、全員がそうではありませんでした。
何かと優遇された正室・源倫子の生んだ嫡子らに対して、側室・源明子らが生んだ庶子は鬱屈した思いを抱えていたようです。
今回は藤原道長の次男・藤原頼宗(厳密にはその従者)が起こしたトラブルを紹介。やり切れぬ思いが、彼らを非行に走らせたのかも知れませんね。
実資の従者を罵辱
時は長和元年(1012年)5月、頼宗に仕える従者が、藤原実資の従者を罵辱しました。
どんな理由(言いがかり?)で、どれほど口汚く罵り辱めたのでしょうか。
その詳細は記録に残っていませんが、ほとんど凌轢(りょうれき)に近かったと言います。
凌轢とは車で轢きにじること。実際に牛車で轢く場合もあれば、そのように強い痛手を負わせたという喩えかも知れません。
しかし従者というものは主人に似るのか、実資の従者は主人に迷惑をかけまいと、必死に罵辱を耐えたと言います。けなげですね。
ボロボロの状態で戻ってきた従者を見て、実資は愕然。従者の忠節をねぎらうと共に、頼宗へ使者を送りました。
すると頼宗はすっかり恐縮。実資に対して「ただちに陳謝し、暴行に及んだ従者をそちらへ引渡します」と返答します。
思いのほか素直な頼宗の対応。しかし実資はこれに気を許さず「その必要はありません」と重ねて回答しました。
それと同時に、実資は道長に対して真相を伝えます。
実資は頼宗を警戒しており、道長に対して自分を讒訴することを想定。先回りしておいたのでした。
実資の先手が功を奏したのか、道長も頼宗も特に何か言ってくることもなく、事件は有耶無耶になったようです。