娘たちを次々と入内させ、皇室の外戚として権力の絶頂を極めた藤原道長。
彼の幸運は家督継承戦を勝ち抜き、正室である源倫子の経済的支援と多産(主に女児)によって支えられたものでした。
しかしその息子たちは父のように上手く行かず、やがて摂関政治の斜陽を迎えることになります。
娘たちは父親の野望に振り回され、必ずしも幸せとは言えませんでした(それは道長の娘たちも同じですが……)。
今回はそんな一人・藤原生子(せいし/なりこ)を紹介。果たして彼女はどんな生涯をたどったのでしょうか。
後一条天皇への入内に失敗
藤原生子は長和3年(1014年)8月17日、藤原教通と正室・藤原公任女(きんとう娘。実名不詳)の間に誕生しました。
生子が17歳となった長元3年(1030年)、父の教通は生子を後一条天皇(敦成親王。一条天皇の第二皇子)に入内させようとします。
この頃の教通は兄の藤原頼通としきりに張り合っており、あわよくば権力の座を奪い取らんと必死でした。
しかし後一条天皇には叔母の藤原威子(いし/たけこ。道長四女)が既に入内しており、生子が入内すれば一族同士で無用の争いを惹き起こしかねません。
教通の野望を前に、威子はボイコットの姿勢を示し、また祖母の源倫子や伯父の藤原頼通は猛抗議。
仕方なく教通は生子の入内を取りやめましたが、こうなることは容易に予測出来なかったのでしょうか。