「暴れん坊将軍」こと8代将軍・徳川吉宗は本当に名君だったのか?〜 享保の改革の光と影

歴史 好き太郎

改革の割を食う庶民たち

「暴れん坊将軍」でも有名な徳川幕府の八代将軍である徳川吉宗。彼は、享保の改革により幕府財政を改善した、江戸時代屈指の名君と謳われてきました。

しかし、その「改革」の政策内容や庶民にもたらした影響をつぶさに見ていくと、果たして本当に名君と呼んで良いのかどうか怪しいところもあります。その評価について少し検証してみましょう。

享保の改革の柱は、倹約の徹底にありました。長く続くインフレにより悪化した幕府財政の回復を目的として行われたものでした。

そもそものインフレの原因は、五代将軍・綱吉の時代に公共投資が行われたことや、貨幣の流通量が増えたことにあります。

六代目の家宣や七代目の家継の時にもデフレ政策は実行されましたが、両将軍が早世したこともあって経済の安定には至らず、幕府の財政は悪化してしまったのでした。

吉宗はまず、支出の見直しを進めました。それと同時に、参勤交代の期間短縮を見返りに、石高一万石に対して100石を幕府に提出する上げ米令を、全国の大名に発布します。

また家臣と庶民には豪華な服装や食事を禁止し、吉宗も率先して質素な生活を行い、部下の模範となりました。

こうして幕府財政を再建したことで、吉宗は高く評価されてきました。しかし、幕府にとってプラスに働いた一方で、改革によって負の影響を被った人々も多く存在しました。改革を機に、庶民の生活が悪化したのです。

4ページ目 強まる農村の反発

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