『和泉式部日記』の作者
あかね/和泉式部(いずみしきぶ)
泉 里香(いずみ・りか)『和泉式部日記』の作者。まひろ(紫式部)とは、四条宮の和歌を学ぶ会で知り合う。親王二人に愛された、恋多き華やかな女性であり、和歌には突出した才能を持つ。やがて彰子の女房となる。
※NHK大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより
恋多き天才女流歌人として知られる和泉式部(いずみしきぶ)。
夫がありながら二人の親王をはじめ数々の男性と恋愛劇を繰り広げた彼女は、当時異色な存在として知られました。
藤原道長から「浮かれ女」と評されたり、紫式部も日記で批判したりなど、人々の顰蹙を買っていたようです。
そんな和泉式部の夫は、橘道貞(たちばなの みちさだ)と言いました。
自分に正直すぎる妻を持って苦労が絶えなかったことでしょうが、果たしてどんな人物だったのか、気になるところです。
そこで今回は和泉式部の夫・橘道貞について紹介。その生涯をたどってみましょう。
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藤原道長の側近として活躍
橘道貞は生年不詳、橘仲任(なかとう)の子として誕生しました。兄に橘道時がいます。
兄と共に藤原道長の側近として仕え、それぞれ道の字を拝領・改名したのだとか。
こういう時は頭文字「道」よりも下の文字「長」を賜りそうなものですが、それだけ信頼が篤かったのかも知れません。
和泉式部との結婚時期は不明ですが、娘である小式部内侍(こしきぶのないし)が長徳3年(997年)から長保元年(999年)ごろに誕生しているため、これ以前(長徳元年・995年ごろ?)に結婚したのでしょう。
ちなみに和泉式部という女房名は、夫と父・大江雅致(おおえの まさむね)の官職を合わせたものと考えられています。
他にも橘通道(ゆきみち)や女子(藤原資業室)が生まれているものの、母親は誰か分かりません。
長保元年(999年)には和泉守(いずみのかみ)と太皇太后宮権大進(たいこうたいごうぐうごんのだいじょう/だいしん)を兼ねています。
和泉守とは現代の大阪府南部に当たる地域の国司長官、太皇太后宮権大進とは太皇太后(先々代以前の皇后陛下)に仕える三等官でした。
長保元年(999年)に太皇太后である昌子内親王(しょうし/まさこ。冷泉天皇后)が病を得たため自宅へ迎え、一家を挙げて看病しました。
また和泉守として現地へ単身赴任していた頃も互いに文を取り交わしているため、この頃はまだ(少なくとも表面上は)夫婦円満だったと考えられます。
なお、昌子内親王は長保元年(1000年)12月1日に道貞邸で崩御されました。