鎌倉時代に後醍醐天皇が討幕を考えたきっかけは?実は当初は幕府と強調しようとしていた

歴史 好き太郎

見直されつつあるイメージ

鎌倉幕府を倒し、朝廷中心の政治を復権させた後醍醐天皇。通説では、天皇は早くから鎌倉幕府打倒を志し、2度の倒幕計画を企てたといわれてきました。

なぜ幕府を打倒しようとしたのかというと、『太平記』によれば子を即位させたい後醍醐にとって、即位の決定権を持つ鎌倉幕府が邪魔だったからだとされています。

元亨4年(1324)の討幕計画は密告によって失敗し(正中の変)、7年後に立てた計画も幕府に露見して流罪となったものの(元弘の変)、三度目の挙兵により執念は実り、後醍醐は鎌倉幕府を滅ぼします。

以上が通説ですが、こうしたイメージは近年、見直されつつあります。

後醍醐は当初、幕府の承認を受けて皇統を確立しようとしました。それが叶わなかったので倒幕に踏み切ったと考えられるようになってきたのです。

「中継ぎ」の微妙な立場

まずは、後醍醐が置かれていた政治的環境を整理しましょう。

鎌倉時代の朝廷には、持明院統大覚寺統という二つの皇統が存在しました。両者の仲は悪かったのですが、幕府の仲介を得るなど紆余曲折を経て、交互に天皇を出す慣例ができます。これを両統迭立といいます。

そして、天皇の父(もしくは祖父)の上皇が朝廷を主導する院政により、朝廷の政治は執り行われていました。

さて後醍醐は、大覚寺統の血統です。彼は行動力がある天皇として知られていますが、権力基盤は不安定でした。

もともとは大覚寺統の嫡流である邦良親王が幼かったため、親王が成長するまで傍流の後醍醐が中継ぎとして即位したという経緯がありました。中継ぎである以上、後醍醐が院政を行なえる可能性は低いでしょう。

よって政治を主導するには子を天皇につける必要がありますが、後醍醐は持明院統からも大覚寺統からも譲位のプレッシャーをかけられていました。

正中の変が発覚したのは、そんな状況下のことでした。

2ページ目 後醍醐天皇は被害者? 〜 子が即位する可能性があった

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